とは断じ難い。時代が下った明代の螺細の作品では,円形の画面ではあるが,柳水禽螺細盆子等に同パターンの花鳥画風の文様が描かれており,この時期になると中国螺細から何らかの影響を受けていたと考えるほうが妥当であろう。ところで,室町期の硯箱においては,さらに明確な対角線のラインを伴った構図がみられ,前代にはなかった新しい傾向を示す。源氏夕顔蒔絵手箱(萬野美術館)の檜垣の描く線,住吉蒔絵硯箱(角海家蔵)の蓋表の鳥居,蓋裏・見込部の土塀の描く斜めの線などが端的な例である。建造物等の直線的な形態を構図の中に利用することにより,画面に安定感とリズムを与えている。また鎌倉時代までの叙景文には,なだらかな土波を伴う野辺の風景が描かれることが多いが,この時期から,山や渓谷,里のなどの起伏に富む山水を描く図柄が増えている。小倉山蒔絵硯箱(サントリー美術館蔵),男山蒔絵硯箱(東京国立博物館),春日山蒔絵硯箱(根津美術館)など山の名所を主題とした硯箱の意匠では,主役である山並が対角線のラインをかたちづくる。この様なモティーフ・構図の選択は,確かに中国宋元の山水画と近しい感覚を示すものであり,山懐に描かれる茅舎は書斎図のイメージと重なり合う。春日山蒔絵硯箱の蓋裏に表された小世界には,中国文人の隠逸思想に倣い,ものさびた雰囲気を求める中世の精神が凝縮しているように感じられる(注6)。ところが上にあげたような硯箱は,いずれも和歌をもとにした歌絵の意匠であり,日本の四季の自然にもとづく王朝文化の叙情世界と連続性をもった「和」の主題を現しているというところがおもしろい。硯箱は当時の文芸趣味の象徴的な道具であったため,その意匠には蓋の表裏の構造を巧みにいかした複雑な構成をとるものが多い。硯箱の鑑賞者である教養人の共通言語としての詩文・物語の主題が,箱の蓋を取ったり動かしたりする動作のうちにその姿を現していく仕掛けが硯箱には施されている。それは多くの享受者の共感なしには意味を持たない意匠であり,彼らの共感の結実ともいえるだろう。このように,きわめて私的であるとともに杜会的な機能を有した硯栢の装飾は,手箱にほどこされる装飾,すなわちハレの調度であるがゆえにある意味では没個性的でもあり,また人格を反映する余地をあまり残さない手箱の装飾とは必然的に異なる性格を持つものと考えられるだろう。平安・鎌倉時代の手箱の自然観照的な叙景文から,室町時代の硯箱では人物を描きこむ風景,または人物の存在を暗示させる建物を描く風景への変化が認められ,文様の中に人間の社会生活,生きざまが-401-
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