鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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釈迦霊山説法図と称されて著名な八世紀の作品に,ボストン美術館所蔵法華堂根本曼陀羅があるが,十二世紀の寛信の修理銘に「霊山之変相,天竺之真本也」とあるごとく,結珈践坐する主尊・菩薩・比丘衆の背景に逢々とした山岳渓谷の自然景が描かれるのを特色とする。また,敦煙莫高窟には法華経変相図が四十二の窟に認められるが,序品分に当たる中央の仏菩薩の会座の背後には弧形をなす山岳が例外なく描かれている。法華経等に説く釈迦の仏国土の荘厳のありようは,大乗経典で繰返し説かれる諸々の如来の浄土のそれと特に変わるところはないのであるが,釈迦仏浄土の独自性はそれが霊鷲山という山にあるという点であり,造形化に際してはこれらに見るような山岳や水景が用いられることになる。つまり,山水のモティーフはそれ自体,彼岸ならぬこの世界における清浄なる聖域のイメージを惹起するものであるが,霊地鷲峰山という特定された場を象徴することで,他仏の説法の会座と明瞭に区別をつける役割ー一言い換えれば,背景を欠いては何仏の説法図であるか容易には判じ得ない尊像群を,釈迦の霊山におけるそれであると認知せしむる重要な道具立てともなっているのである。しかるに勧修寺繍仏では画面の上方左右に十分な余地があるにもかかわらず山岳景を表わさず,加えて主尊が,霊山説法図であることの明らかな諸作品中には一つの例もみない椅坐像であることから見ても,釈迦霊山説法図とする従来の通説は妥当ではない。初唐時代には椅像の如来像は少なくないが,銘文によって確認される尊名は弥勒仏像と優填王像の二種類に限られる。勧修寺繍仏の主尊をこれらの図像と比較すると,優填王像のそれに近い形式を示すが,椅坐形で表わされる二種類の尊像が同時代に流行したからには両図像が相互に影響関係をもったであろうことも想定できることから,繍仏の主尊はどちらの蓋然性もあることになる。周囲の図様も経文等とは対応せず尊名を同定する決め手にはならない。なお従来,下辺中央に背面向きに表わされた赤衣の女性を吉祥天とし,繍仏の主題を吉祥天の登場する「金光明最勝王経』に説く釈迦霊山浄土図とする解釈がある。しかし,莫高窟に十例前後遺っている金光明経変相図には吉祥天は表わされず,しかも主尊の釈迦仏は俺像ではなく例外無く坐像であって,この見解もまた疑問である。背面向きの人物像は礼拝する供養者の姿としてしばしば拮かれる通りで,武周期の敦煙第三ニー窟南壁にも繍仏と同様の服制の女性供養者が見える。すなわち本繍仏は,初唐時代の中央において,新たに伝来したグプタ朝インドの様式の尊容による弥勒仏ないしは優填王像と,女人ら僧俗による供養を主題とし-33 -

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