(1) 「主祭壇」(カタログp.185,挿図8):中央内陣に設置されている。「ゴルゴタの丘(2) 「ゲオルク祭壇」(カタログp.186,挿図9):中廊第一ベイ南円柱脇。聖ゲオルギ聖堂とは異なる,中世末期の都市共同体によって造営された聖堂や木彫祭壇の典型的なあり方を観察することができる。3)たとえば52の祭壇を擁していたウルム大聖堂のように,多数の脇祭壇を造営することが可能な大都市は宗教改革運動や戦争の焦点となり,その聖堂内装も多くの場合破壊されてしまっている。ニコライ聖堂の場合,フランス革命の影響によって当初15あった祭壇のうち7点が解体されてしまったものの,いまだに8点の祭壇が残されており,多くの祭壇によって構成される中世末期の聖堂内装の姿を伝える稀有の例となっている。4)カルカー市古文書館には,15世紀以来の公文書がよく保存されている。これらの文書は19世紀の史家・司祭}.A.Wolffによって整理され,概要が報告されており,当時の都市共同体がどのように聖堂と祭壇を造営し,運営したかを明確に把握することができる。ニコライ聖堂とその内装の以上のような意味と状況から,本年度の研究は,ひとまず次の三点に焦点をあてて行われた。すなわち1)ニコライ聖堂内木彫祭壇の現状把握。2)16世紀当初にみられた祭壇群の状態とその変遷。3)都市共同体の祭壇とその造営に対する関わり方。以下では,この三点について報告する。2.ニコライ聖堂内装木彫祭壇群の現状内陣と二つの脇内陣,および5つのベイからなる三廊式の身廊部を中心とする聖堂内部には,現在8点の木彫祭壇が残されている。このように多数の祭壇が一聖堂内に残されている例は稀であるが,1818年に行われた聖堂内装の整理と,それにともなう祭壇の位置の移動の影響を受けて,これらの作品も,必ずしもオリジナルの状態を保っているわけではない。そのためここでは,現在見ることのできる祭壇の位置と,それに加えられた変更の跡を観察する。のキリスト傑刑」場面の浮き彫りをおさめた凸型の厨子,二対(8枚)の翼扉,プレデルラはともにオリジナル。外側の翼扉には,当初より絵画が描かれていない。ウス伝の浮彫をおさめた凸型の厨子,一対(2枚)の翼扉,上段のプレデルラはオリジナル。下段のプレデルラはもともと「セバスティアン祭壇」に属していた。-408-
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