2.敦煙将来繍仏についてて制作されたものと推測する。なお,研究成果の詳細は「勧修寺績仏再考」(『仏教芸術』212号1994年1月)を参照されたい。スタインによって敦煙莫高窟により見出されたこの繍仏は,勧修寺繍仏と法量や技法,制作年代がほぼ近く,両者を比較することによって得られる見解は,この時期の繍仏の意味を考える上で示唆に富むものと思われる。しかしながらこの作品もまた,まず主題に関する従来の定説を見直す必要があるのである。本繍仏もスタイン以来今日まで釈迦霊山説法図と呼ばれている。偏担右肩で右手を垂下し,左手に衣を執る特徴的な形姿の如来立像をこう称するのは,背景にした峨々たる岩山を霊鷲山と解するからであるが,すでに1983年に史葦湘氏によって指摘されたように,この図像は涼州番禾県御谷山の瑞像を表わしたものであって,霊山説法の釈迦ではない。初唐の道宣による『集神州三宝感通録』をはじめ『続高僧伝』『広弘明集』等の著述,さらに1981年に廿粛省武威で出土した唐天宝元年(742)撰文の石碑には,現在の甘粛省永昌,古名を番禾県とよぶ土地にある石像の因縁説話が語られている。それは江南における阿育王舎利塔伝説で知られる東晋の僧慧達,俗名劉薩詞に関する説話で,彼の予言によって北魏末期に出現した石仏をめぐる神異諏である。無首の姿で現われた石像は,「霊相具わらば則ち世は楽にして時は平かならん。もし欠くる有らば則ち世は乱れ人は苦しまん。」という劉薩詞の言葉通り,その後国家や仏法の盛衰を仏頭を具えるか否かで予徴し,奇瑞ある像として世に知られる。隋に至って湯帝の親幸があり,道宣の時代には模写模造が盛んに行なわれて流布していたという。現に管見の限りでも五十例近い画像ないしは彫像の作例が,敦煙莫高窟,西千仏洞,安西楡林窟,文殊山石窟,柄霊寺石窟などの河西地方の石窟や山西省にかけて見出され,その年代は初唐から宋,西夏時代に及んでいる。中でも注目される作例に,伝説の地である永昌県の西方山間の寺址にのこる摩崖仏がある。像高約6メートルに達する如来立像は頭部を別に丸彫りで作っており(現在永昌県文化館に収蔵),立地はもとより石像の法量と形式は道宣の記述や石碑碑文と一致することから,或いは北魏時代-34-
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