鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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オルク祭壇」の場合,1455年に木彫祭壇が完成し,その際に聖ゲオルギウス兄弟団が代理司祭職の寄進を行ったという記録があるが,現在見られる木彫祭壇は様式からして1480年代前半に彫刻家アルントが制作したと考えられ,また翼扉外側には,寄進者として1480年代に市長や判事を歴任したペーター・ギーセンとその一族の像が描かれている。祭壇の性格からすれば,「ゲオルク祭壇」は聖ゲオルギウス兄弟団の祭壇であり,ペーター・ギーセンは,1455年に築かれた木彫祭壇が1480年代前半に新しい作品に更新された際,その新たな祭壇を兄弟団員としての資格によって寄進したと考えるのが妥当であろう。こうした例はまた「アンナ祭壇」に見られる。記録によればこの祭壇画のために,1484年から1490年にかけて聖アンナ兄弟団が画家デリク・ベーゲルトに支払いを行っているが,同時に祭壇に対してエヴァーハルト・バーテルスとその妻メヒティルド(旧姓タイルマン),祭壇付きの司祭職に対してヨハン・タイルマンとその妻エリーザベトが寄進を行っていることが報告されている。「アンナ祭壇」は聖アンナ兄弟団の祭壇であったが,その造営・運営に関わる費用の,記録に特記されるほどの部分を兄弟団内の有力者バーテルスおよびタイルマン夫妻が負担したということであろう。ザンクト・ニコライ聖堂内装には,当初,中央の内陣に据えられた主祭壇を中心として,14の脇祭壇が,聖堂建築の秩序に従って整然と配置されていた。このように多数の祭壇によって形造られる中世末期の都市の聖堂内装は,例えば修道院附属聖堂の壁画による内装のように教義による厳格なプランによって形成されるのではなく,それぞれの機会に応じた市民,および市民団体の寄進によって段階的に生成したことを,ニコライ聖堂の例は示している。またそこには,聖堂/主祭壇一脇祭壇ー寄進者という関係を通して,都市全体の社会構造が反映されているということができるだろう。なおこの度の報告では,当初予定していた研究の目的のうち,1)ニコライ聖堂の木彫祭壇制作に携わった彫刻家と作品の様式研究,2)ほぼ同じ彫刻家たちによって刷作されたクサンテンのザンクト・ヴィクトール参事会聖堂内装とニコライ聖堂内装の比較の二点に関して,まとめることが出来なかった。しかし,1)の作家および様式研究は,当時ネーデルラントとドイツの結節点であったカルカー市の位置からして,両地域の彫刻様式,および工房間の交流を探る上で非常に興味ぶかく,また2)の比較は,二つの都市および聖堂の性格の相違がどのように聖堂内装の造営に反映された-413-

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