鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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に遡るオリジナル像であるかとも考えられる。これら一連の作例は,莫高窟第二三七窟の奥壁寵頂の画像のうち「番禾県北聖容像」という傍題を付した像と同形式であることから比定できるのであるが,多くはこの大英博物館所蔵敦煙将来縞仏の場合と同じく背景に山岳の状を作っている。これは,大風雨と雷震とによって山巌が裂けて石{象が出現したという説話に依拠するものである。これらの諸作例は多様な表現形式を示しているが,筆者はそれを大きく四つに分類し,その中における本繍仏の位置付けを試みた。第一類は,この番禾県瑞像の説話を絵解きする構成で画面に多くの情景を描き込んだ説話図形式のものであり,代表例としては莫高窟第七二窟南壁壁画や大英博物館所蔵絹本画断片がある。第二類は,独尊ないしは脇侍を伴った三尊,五尊形式で表現されたもので,彫像と画像があるが,制作年代の明らかな作例のなかで最も早いものは,聖暦元年(698)の年紀のある甘粛省古浪県出土の丸彫りの石像である。第三類は,様々な種類の如来像や菩薩像とともに並置して描かれた形式の作品で,スタイン将来の「西域瑞像図」とよばれる絹本画や莫高窟第二二〇窟旧南壁壁画などに代表される。第四類は,五代から宋代に散見される特異な画像で,一般に「仏教聖跡図」とよばれているものである。こうした表現形式の多様性は,とりもなおさず劉薩詞や番禾県瑞像に対する信仰のあり方の複雑さを生勿語るものであろう。本敦煙将来繍仏は,二比丘二菩薩が脇侍し天蓋の左右に宝雲にのる天人,運台下に二獅子を配して荘厳を完備した礼拝像であり,第二類に分類できる。五尊形式をとるとはいえ,番禾県瑞像を表わした如来立像の挙身光周囲の山岳形は,脇侍の背景には及んでおらず,主尊だけに付帯していることに注意すべきである。脇侍等はあくまでも付加された図像に過ぎないのである。このように,多くの説話場面を伴う第一類の作例とは異なり,背景の山岳形以外には劉薩詞の瑞像説話を説明する要素を全く伴わない図像が成立するためには,番禾県の石仏が瑞像として権威付けられ,その図像が配号的といえるまでに普遍化した土壌が必要である。この繍仏が発見された敦燻では,香禾県瑞像が石窟の本尊として造顕された例を見出すことができる。すなわち,初唐時代の造営による莫高窟第二0三窟(宋代重修),盛唐の開竪と考えられる第三00窟がそれであるが,両者とも寵壁に影塑の山岳形を作って主尊たる立像の周囲を充填している外は,何らの説話的モティーフも付随しない点,敦燻将来繍仏と共通している。(ちなみに,時代が下がって五代,北宋あるいは西夏時代になると,同じく第二類に-35-

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