鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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性をもつものは,厳密には撰要寺本1点にすぎない。しかし,この童子図を語るとき,避けて通れないのが,曖昧模糊とした本来の主題の探索であり,研究の主眼も,主題の同定に注がれてきたといってよい。最初に主題の同定を試みたのは黒田源次氏で,「一丘」の落款印章をもつ1本が東京国立文化財研究所に購入されたのを機にそれを紹介した論文(注2)において,この画像を新約聖書ルカ伝に現われるイエス・キリスト12歳の姿を描いたものであるとした。以来これがひろく認められ,その後ながらく定説とされてきた。しかし,明確な図像的根拠は提示されておらず,また,イエス12歳の姿は,単独の半身像として描き出す例が我が国はおろか,西洋においてもみられないことから,現在では黒田説に疑義が出されている。黒田説がその信憑性を減衰させていく一方で比重を高めてきたのは,「真人」という語を意味論として取り上げ,この画の主題を探ろうとする傾向である。たとえば,「真人」という語は,『荘子』には,道を体得した人の謂でこの語がみえる。また道教では,仙人の別称として用いられるほか,道士の尊称としても用いられた。しかしいずれのばあいも問題となるのは,童子像として表わすべき積極的な根拠を欠いていることである。これに対して近年有力な説は,この作品が,ある人物を信仰の対象とするか,あるいは追善供養のために描かれたものであり,それがなんらかの理由でくり返し転写された,とする説で,金原氏によって提出され,成瀬不二雄氏もこの説を強く支持し,黒田説に代わるものとして定着した観がある。この説にしたがうと,この童子図は,わが国で最初の油絵による肖像画の栄誉を担うことになる。金原氏の論拠は,「真人」を対看写照によって写し取られた写実的な人物表現の意,と解釈したところから発している。その発想の根拠には,風景を見たままに描く,という意で使われる「真景Jという語との類比があった。しかし,「真人」が「真景」と類比されるような意味で使われた例は,『日本画論大観』等を検索しても見当たらない。むしろ「真像」という言葉を使うのが,江戸時代としては一般的であったようだ。例を引いてみよう。右ノ三貼(源頼政卿壽像・同自筆和漢朗詠集二巻・同所持鵜丸太刀一腰)ハ殊二大切ノ品タリトテ其子孫ノ諸侯二,因少l、i備前本末五侯,太田侯,大河内侯,吉田高崎久留里三家,及ビ本願寺坊官下間少進法印等都合十一家二,此三-422-

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