鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
432/475

品ヲ預リシガ,年同或ハ開帳ノ節平等院二陳列ノ硼遠方ニテハ不便ナリト,京師ノ居住故下間氏二預リ,今尚下川原ナル下間員人氏ノ家二{専来ス,頼政在世中ノ慎像ニシテ有名ナル隆信朝臣ノ妙手ニナリシ無比ノ名像タリ,序二云,今平等院ニアル虜ノ頼政卿ノ像ハ備前侯綱政朝臣ノ書ニシテ,普通蜜エノ遠ク及バザル高手タリ。ー,彼諸國の政道にして,聖賢或は名誉の人の顔面を摸して後世にイ専ふ,存生の状を寓照して銅版に刻する者多し,是を観るに其人に應酎するが如し。和漢の鵞像は異を窺すの法にあらざれば,聖像を圏して顔面を豊く者己が意に随ふ,故に書工各々其園形を異にす,興像を傭へざれば聖像にはあるまじ,草花を窺すに其花に似ざれば其物にはあるまじ。このように,「真景」に類比される意では,「真像」という語を充てる例が散見される。それでは,「真人」が対看写照によって写し取られた写実的な人物表現の意ではないとしたら,いかなる意を充てることができるのであろうか。本稿は,真人という語をもう一度吟味しながら,ひとつの仮説を提示してみることを目的としている。0もうひとつの「真人」本節に入るに当たって,もうひとつの「真人」の用例をあげてみたい。童心とは真心である。童心を以て不可能となすものは,とりもなおさず真心を以て不可となすものである。童心とは仮偽を断絶して純粋に真実なる最初一念の本心である。もし童心を失うならば,すなわち真心を失うのであり,真心を失うのは,すなわち真人たるを失うのである。人にして真でないならば,もはや原初の本質態を維持するということは,どうしてもあり得ない。童子は人間の初である。童心は心の初である。そもそも心の初というものをどうして失ってよかろうか。然るに童心は何とはなしに,いつか失われてしまう。蓋しその最初は,耳目を通して聞見が入ってきて,内の主となる。かくて童心が失われる。成長するに及んでは,聞見を通して道理が入ってきて,内の主となる。かくて童心が失われる。歳月を経るままに,道理,聞見は日日に多くなり,知童心説(『翔見驚談』)(司馬江漢『西洋書談』)-423-

元のページ  ../index.html#432

このブックを見る