下略)識判断は広範囲となり,その結果,美名の好ましきことが意識されてきて,名声を揚げようとつとめる。かくて童心は失われる。美ならぎる名の醜なることが意識されてきて,それをかくそうとつとめる。かくて童心は失われる。(以矯激と異端とをもって知られる中国明末の陽明学左派の思想家李贄(卓吾)(1527■1602)の主著のひとつ『焚書』巻三に収められる「童心説」の前半部分を抄出したものである。ここに「真人」という言葉が現われる。「童心説」にしたがうと,真人とは,「耳目を通して聞見が入ってきて」また「聞見を通して道理が入ってきて」やがて美名と名声を揚げようとして「童心」か失われるまえの「人間の初」の姿を表わしている。引用文に続く部分に,「童心が障害されていて,外から入ったところの聞見道理を以て心となし」,「口にするのはすべて聞見道理の言葉であって,童心みずからの出す言葉ではない。」,このように聞見道理の泥んで「童心」を失い天性を汚してしまったものを「仮人」と称し,「真人」と概念的に対立させる。李卓吾の思想の特色は,「儒•仏・道の三教の遺産を存分に活用しながらも,教学の枠にいささかも拘束されることなく,真実の生を求めて激しく生きた」(注4)ところにあり,なかでも「とりわけ,いっさいの仮構を拒否して人間の本来性をうたいあげたもの」(注5)として,「童心説」がよく知られる。その過激な思想は危険視され,近代に及ぶまで中国では忘れられた存在であったが,江戸時代の日本に移入されるや,李卓吾をはじめとする陽明学左派の思想は18世紀半ば,京都を中心とする思想家に受け入れられ,独自の転化をみせた。服部蘇門や芥川丹丘がそれを代表する思想家だが,彼らが陽明学左派に刺激をうけて案出した「狂」の思想は,また,画壇にも影響を及ばして,曾我癖白などの奇想の絵画の出現を促したといわれている(注6)。李卓吾は,聖典とされる六経や『論語』『孟子』は聖賢の真意をゆがめて説いたもので童心を毒するものとして否定し,逆に,低俗視される小説戯曲の『西廂記』『水滸伝』の類にこそ人間の本来性が説かれているとして賛美する(注7)。李卓吾が評註を加えた『水滸伝』や『西廂記』は,我が国にももたらされたが,李卓吾の名は,実は我が国では,思想家として以上に『水滸伝』や『西廂記』などの小説戯曲の評註(李卓吾『焚書』三「童心説」)(注3)-424-
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