者として,一般には瞼炎していた。さて次に,東京国立文化財研究所本(図版)の像様を参照しつつ,「童心説」との関連を探ってみたい。冒頭にも記したように,童子は,粗衣を羽織り,髪はざんばら,というようにその風体に構う様子はない。左(向かって右)肩口から墨のすばやい筆描きがのびているが,神戸市立博物館所蔵本をみると,柔らかく波打っており,これが無造作に伸びた髪の毛を表わしたものであることがわかる。明治時代になって洋髪が入る以前の日本では,髪を結うという所作は人間の成長に画期をつくるものとして重視された。たとえば,前髪を落としてさかやきを剃ることは,大人への通過儀礼としてきわめて大切な所作とされた。逆にいうと,髪を生えるにまかせて何の手入れも施さない状態は,当時の常識からいうと,「人間の初」の無垢の状態を意味する。この図の作者は,「耳日を通して聞見が入ってきて」また「聞見を通して道理が入ってきて」やがて美名と名声を揚げようとして「童心が失われる」まえの「人間の初」の状態を可視的に表現するためにこのような図像を使ったのではないだろうか。我が国で,李卓吾にとりわけ深い関心を抱いたのは,吉田松陰(1830■59)である。頃ろ李卓吾の文をよむ。面白き事沢山ある中に童心説甚だ妙。<童心なる者真心なり,と〉。吾輩此の心未ださらず,足下の荘四をいじめるのが即ち此の心なり。<仮人を以て仮言を言い,仮事を事とし,仮文を文とする,と〉。政府の諸公,世の中の忠義を唱うる人人皆是れなり。<仮言を以て仮人と言えば,即ち仮人喜ぶ。…………仮ならぎる所なければ,則ち喜ばざる所なし,と〉。今の世事,是れなり。中に一人の童心のもの居れば,衆の悪むも尤もなこと野山獄にあった松陰が弟子の入江杉蔵に宛てた書簡で,田原荘四郎の裏切りをどこまでも追及しようとする杉蔵の姿勢を童心といい,また,藩庁の優柔不断で妥協的な施策に対してどこまでもラディカルな姿勢をつらぬこうとする,その純粋さを童心といっている(注8)。同じ年の2月29日の杉蔵宛の書簡で,「李卓吾の文を手抄して寄示す,反復披玩せょ」と記し,『焚書』を抄写したものをあわせて杉蔵に与えている。この手抄のなかに「童心説」が含まれていた(注9)。(吉田松陰入江杉蔵宛書簡安政6年正月)-425-
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