鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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注(1)金原宏行「洋風画家大久保一丘松陰の膝下からは高杉晋作や久坂玄瑞ら多数の幕末動乱期の志士が生まれ,明治維新の担い手となった。興味深いのは,東文研本にまつわる伝承が間接的ながら,彼らとの関係を匂わせていることである。その伝承というのは,明治維新の際の会津征伐の折,官軍の兵士が福島県S氏宅に置いていった,というものである。0結語さて本稿では,「真人図」と呼ばれる一連の洋風童子図が中国明末の陽明学左派の思想家李卓吾の「童心説」の我が国への波及とそれを受け入れた幕末の思想を背景として,なんらかの礼拝像として描かれたのではないかと想像を巡らせてみた。作者の問題にはこれまで触れずに来たが,ここで若干述べておく必要があろう。16点のうち落款から作者の明らかになる作品はわずかに2点を数えるにすぎない。そのひとつは,図版にもあげた東文研本で,作者は大久保一丘(?■1859)。その生涯は逸伝に近く,西洋画法を司馬江漢に学んだとする説もあるが,確証はない。ある時期から遠州横須賀藩に絵師として召し抱えられるようになったが,『安政文雅人名録』の附録には江戸木挽町三丁目の在住となっており,江戸詰めであったものとみられる。一丘を一連の「真人図」の作者に比定する考えが長らく支配的であったが,岡戸氏はそれに疑義を示している。同様に岡戸氏は,唯一確証のある東文研本が,必ずしも一連の「真人図」の最初の作品ではないことも指摘しているが,同本に比較して様式化の度合いの少ない神戸市立博物館本の存在はそのことを裏付ける。もうひとつ作者のわかる作品は一丘の息子一岳の手になるものであるが,表現の硬質化は一層進んだものとなっている。したがって,この画の図像が一丘によって案出されたものであるかどうかについては,なお考究を要する。また,安政6年(1959)の一丘没後も描き継がれたと考えなければならない。図像的根拠の問題,なぜ洋風表現を必要としたのかという問題は,この洋風童子図の最終的解明に避けて通れない問題と考えられるが,本稿では,主題についての仮説を提出するにとどめておきたい。真人図を中心に」(『古美術』56号昭和53-426-

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