分類できる礼拝形式の作例にも,山岳のほかに猟師や鹿,僧といった番禾県瑞像説話に登場するモティーフが表わされるようになる。)こうした番禾県瑞像の図像の普遍化と礼拝本尊化は,ちょうど道宣による説話の記録や武威出土石碑の撰述と年代的に重なりあうことから,瑞像伝説の整備・流布と軌を一にしたものと捉えることができよう。現存遺例の分布が河西から河東地区に偏しているので,番禾県瑞像の信仰は地方的なものに限られた可能性が大きいが,そこは同時に神異僧劉薩詞自身に対する土俗的民間信仰が見られた地域でもあり,敦煙将来繍仏の制作にはこうしたこの時期のこの土地における特殊な信仰が関与していることを考えるべきである。この繍仏の制作事情について,いますこし述べておきたい。画面の下方には願文を記す為の界線のはいった区画が設けられ(但し文字は当初から無かったものとみられる。)その両側に供養僧や侍者と幼児を伴った七名の男女の供養者が表わされている。各々に付された短冊型の文字は判読しがたいが,この供養者の部分が最も細い絹糸を用いて精妙に施繍され,それぞれの個性ある相貌や服装,あるいは幼児を連れるといった仕草が表現されていて,この地の有力者一族が周到に作った作品であることを窺わせる。この精緻な供養者像の刺繍に比較して,中尊や脇侍では用糸や針目が一定せず部分によってまちまちであることが観察され,数人の信者が下絵に従って刺繍したことが想像される。おそらくは亡者追善のための制作であろう。この点について勧修寺繍仏と比較すると,両者の性格の違いは著しい。中央の専門エ人による完成度の高い勧修寺繍仏に対し,敦煙将来繍仏は刺繍には素人の信者数人の共同制作による地方作であり,前出の『全唐文』の例にみるごとく私的な性格の作品である。繍仏は図像を平面的に表わしたものであることから絵画に準じた捉えかたがなされるが,刺繍による図像の表出には絵画とは異なる局面があることが顧慮さるべきである。繍仏制作に当たっては,下絵作画と施繍という異質のニエ程があるが,下絵制作は専門の画工によるとしても,施繍は素人にも可能である点が画像や彫像とは本質的に異なり,民衆芸術化しやすいものであった。また一方,刺繍は服飾の基本的な技法であることからそれを専業とするエ人や組織が想定されるが,ことに宮中には職能集団が置かれ,彼らが繍仏制作に関与した可能性は大きい。七,八世紀のこの二例の繍仏は,そうした繍仏制作のあり方のそれぞれの対極に位置する遺例として貴重である。-36-
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