鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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シノワズリーとアラベスクの結びつきとしては,ュエChristophH tietの作例が興味深い。ユ工は1730-50年代に猿をモチーフにしたサンジュリーのアラベスク装飾の分野で活躍し,コンデ城,ロアン館,シャン城の「猿の間」の装飾で知られている。コンデ城の装飾では,サンジュリーとシノワズリーが合体し,中国人に扮した猿の情景を,同じく中国人化した猿を含んだアラベスクが囲んでいる〔図5〕。摂政期に増大したシノワズリーヘの興味が,伝統的な装飾パターンのうち獣類に代るモチーフとして,さらに中国人というモチーフを付け加えたと解釈できるだろう。中国人は,猿や道化,曲芸師,プットーなどとともに装飾空間を自由に行き来する許可を得たモチーフと考えられる。以上のように,フランス18世紀初頭のアラベスクの展開において,重要な方向性として,文様と地の空間化,形姿モチーフの自律化ということがあげられる。この経過の中で,東洋という神秘の世界が奇抜な発想の飛躍を助長してゆく。そこにはロココのアラベスクという「枠の均衡を破る獣類betes」を取り込んだ装飾様式があり,中国人は装飾の余白の空間を自在に往来できる幻想的な生物の一員であったのである。装飾様式に根ざしたピュマンのシノワズリーは,その意味でエキゾチズムやパラダイスの表現というよりも,造形上と発想上の二重のファンタジーであったと思われる。最後に,ピュマンの経歴を記しておこう。ピユマンは1728年リヨンに生まれ,早くにパリに上京している。ゴブラン工場や,1759年にドイツ人の実業家オベルカンプがジュイ・アン・ジョザースに初めて設立したプリント布地の工場のために下絵を描いている。この頃フランス,イギリスでシノワズリーの装飾図案集を出版。後に,ポーランドに渡り,スタニスラス・アウグストのために宮殿の大サロンの中国風の装飾を担当。また,ウィーンでは宮廷やリヒテンシュタイン公などのために制作。さらに,ロンドン(1779),ポルト,リスボン(1780)など各地を放浪し,パリに帰国後はマリー・アントワネットの宮廷画家となる。多産なデザイン家であり,ヨーロッパにおけるシノワズリの拡散にも重要な足跡を残したと考えられる。-447-

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