鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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よう。それは像底の姿においても顕著である。快慶の手になる園常寺像の像底が,等脚台形に近い姿となり,背面の裳裾が大きく左右に張り出すのに対して,善通寺像では背面がわずかに弧を描き,裳裾の表現とほぼ平行するように剖り上げられている。この,本米は日に触れない箇所における両者の大きな違いは,善通寺像の作者が快慶その人ではないことを端的に物語っていよう。しかし,前記したような類似性からして,善通寺像の作者が快慶に極めて近い人物であったことを認めないわけにはいかない。近年,着衣形式から快慶像の変遷をたどる試みが行われているが(注7)'善通寺像は,偏杉を納衣の襟にたくし込んでわずかに端を垂下させるものとなり,山本氏の分類によれば第2形式ということになる。この形式は,快慶の阿弥陀如来立像において,また地蔵菩薩立像も含めて,快慶法橋時代から法眼となったあたりまでに採用されたものと説かれている。そして,この着衣形式は,左胸においても衣をたるませる第3形式へと変化するが,その確認される初例として,快慶の高弟行快の手になる可能性か説かれる(注8)滋賀・玉桂寺の建暦2年(1212)の願文を納入する阿弥陀如来立像があげられる。快慶の法橋叙任の年次については明確にされていないが,およそ13性紀一桁代の半ばあたりが想定され,また法眼快慶の文献上の初例は承元4年(1210)とされる。この間,第2形式の着衣を現す基準作例は建暦1年の岡山・東舟院像があり,法橋時代の東大寺地蔵菩薩立像や大阪・大円寺像に見られ,特に大円寺像は,その銘記の書式からして法橋時代の東大寺像より遡る可能性が指摘されている。善通寺像の胸.腹部の肉取り表現は,大円寺像よりも,法眼時代の園常寺像に近く,この比較からすれば,善通寺像は法眼叙位後の1210年頃の快慶の作風に近いものと判断されところで,前記した行快の手になる可能性が高い玉桂寺像は,善通寺像の制作年代に近い建暦2年頃の作例であるが,その表現については,快慶像といくつかの違いが認められる。快慶像と比較された三宅久雄氏によると,玉桂寺像は,その「着衣の装飾的表現において一歩先んじた感があり」総じて「動きがあり,派手である」とされている。渦文なども交えての衣摺表現の装飾的効果を強調する玉桂寺像におけるようなあり方が,全体的に,快慶次世代の進む方向性を表しているとするならば,善通寺像の表現は,はるかに保守的であり,その作者は,あるいば快慶の弟子を想定するよりも,快慶と同世代の仏師を想定するべきかもしれない。いずれにしても,善通寺阿-41-

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