鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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灰色の点で描き起こされてから白で塗りつぶされ,それと同時にこめかみに白の照りを施して,最後に上瞼と瞳を黒の線で描き起こす。法座に座るペテロはといえば,どんぐり型の眼の輪郭と,上下の唇の間,鼻孔,耳孔,眉などを黒で描き起こし,それから茶色,白で陰や照りを施してゆくため当然のことながら,黒で描き起こされた部分が侵食される。左の頬や鼻筋の白絵具による照り,口髭の描写の仕方などを見るに,これはおよそ丁寧とはほど遠く,漸次的な色の推移を目指したのではなく,色のぶつかりあいの醸し出す効果をねらっているのである。眼の周りの陰の付け方は,色は茶色になってはいるものの,上段でみた『洗礼』と同様,目元,上瞼,目尻,下瞼をめぐってはっきりと施される。そしてこうした描き方が突き詰められてゆくと,結果としてテオフィルス王子の蘇生を見物している衆人の描き方にいたる。もはや輪郭線は完全に用いられず,眼の周りにつけられる陰にしても茶色の絵具で一息に施され,白絵具の照りも大胆に賦されるようになる。そうした中で,ごく少数だけ,輪郭線を描きおこしている部分,あるいは輪郭線を残して描いた部分が見受けられる。『法座の聖ペテロ』画面右に立っているアルベルティではないかと目されている人物とペテロの画面左側に膝まづくカルメJレ会の修道士。これらの人物はほぼ完全なプロフィールで描かれており,比較的丁寧に賦彩されており,これまでの研究でも,サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂の関係者の肖像ではないかとの指摘もなされてきた。上段の壁画でも,『洗礼を施す聖ペテロ』の画面左端の2人の人物にもやはり輪郭線を引こうとした痕跡がみられる。もちろん,マゾリーノの壁画では多くみられるが,とりわけ『タビタの蘇生と跛者の治癒』に描かれている2人の若者には顕著である。この2人の人物はブランカッチの一族の肖像ではないかと言われてきた。こうした例を見てゆくと,無名者を描く際にはあまり輪郭線を用いずに描く方向に進んでいったマザッチォが,輪郭線を用いる場合をプロフィールで肖像画を描く場合に限定して用いられたのではないかという推測がなされる。プロフィールで人物を描く場合,陰影付けも兼ねて輪郭を引かないと形が明確にならないため,画家としては当たり前の事であったのかも知れない。今後も調査が必要とされる。そこで,実際の壁画の描法とを整理してみると次のようになる。4.礼拝堂の壁画の制作過程について-59-

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