Mille et Une Nuits)。また「アラビアン・ナイト」という名称は,1811年にガラン版Entertainments(アラビアの夜のもてなし)という表題に替え,ロンドンで出版したら41年のレイン版が「アラビアン・ナイト」挿絵として重要であるということを既に本4冊を入手し,その翻訳に着手した。18世紀初頭,このフランス語訳が世に出るや1.千夜一夜物語の文学史アラビア語圏に伝わる民間口承説話にすぎなかった「千夜一夜物語」を世界中に広めた功績は,フランス人東洋学者アントワーヌ・ガランにある。彼は十数年にわたってオリエントに滞在し,旅行を続けているうちに,シリア方面で15世紀に書かれた写忽ち好評を博し,ヨーロッパ読書界の一世を風靡。数年後には英訳,そして次々と欧米諸語に翻訳され,ガラン版「千夜一夜物語」は,とうとう逆にアラビア語に翻訳し直されるという有様であった。そこで,本国つまりイスラム諸国でも「千夜一夜物語」を見直そうという気運が高まり,ガランの翻訳からおよそ1世紀を経て,相次いでアラビア語版「千夜一夜物語」が印刷,発行されていった(ガランの時代には,まだアラブ世界で印刷技術が発達していなかったので,入手可能なアラビア語文献はすべて手書きの写本だった。現存するアラビア語写本に関しては,資料1を参照)。資料2に記したアラビア語版は,エジプト伝来の写本から編纂された最も信頼できる整った原典とされ,通称Zotenberg'sEgyptian Recension略してZERと呼ばれている。この4冊の原典「千夜一夜物語」を下に著名な多くの翻訳書が発行された(各々の翻訳版が,どの原典に基づいているかは資料3を参照)。原題の「アリフ・ライラ・ワ・ライラ」のアリフは千,ライラは夜,ワはアンドの意味なので,直訳すると「千夜と一夜物語」となるが,これを「千一夜」に換えてしまったのはガランである(Les仏訳を英語へ翻訳したボーモントが,ガランの「千一夜」をさらにArabianNights のが始まりだという。研究者は,挿絵史上,特にウィリアム・ハーヴェイが挿絵をデザインした1839年か指摘した(注1)。ところで,19世紀初頭以降のこうした原典出版・翻訳熱の高まりとともに,この書の成立の歴史,どこに起源があるかなどという問題に関する議論も活発に行われるようになっていった。この書に関して文学的見地から体系的かつ詳細な研究を試みたミア・ゲルハールト(注2)'および東洋文庫の「アラビアン・ナイト」の翻訳者,前嶋信次氏等によれば,以下の見解がほぼ定説となっていることがわかる。-64-
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