鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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スコリア最も名誉あるとされた死の形態であった(Loraux1981)。アッティカの浮彫墓碑においてもその例は皆無ではないが,この点についての研究は進んでいない。ラティモアの墓誌銘の研究によると,お産を死因とする記述は,墓碑の図像にみられるより,墓誌銘においてはるかに多く記録されている(Lattimore1942)。換言すると,墓誌銘において産辱の床における死として記載されている場合にも,そこに採用された図像は別離の握手の場面など伝統的な表現が多い。それならば,何故「ヘディステの墓碑」においては死後直後の姿が選択されたのか?「ヘディステの墓碑」の背後に横たわる杜会通念を理解するために,ギリシア神話におけるアルケスティスとアリアドネの役割について考察を進めたい。アルケスティスの神話は,悲劇作家エウリピデスの作品「アルケスティス」(紀元前438年初演)によって人口に謄炎するが,もとはテッサリア地方の伝説が土台となっている(Dale1954)。アルケスティス伝説とは,夫(ペライの王アドメトス)の身代わりに死を決意する王妃アルケスティスの物語で,アルケスティスはギリシア神話中では夫への究極の献身という点で最も尊敬称賛されてきた女性である。しかし裏返せば,そこには結果的に妻の身代わりの死を要求するアドメトスの利己主義と矛盾が明らかで,その点についてはエウリピデスが見事に描写する。「アルケスティス」の古注によれば,口誦伝説として親しまれていた民話ということであるが,この伝説が土地の人々の生活慣習や信念といかなるかたちで係わっていたかは定かではない。本稿では,この神話とそれに付随した杜会慣習を想定して考察を進めるのではなく,アルケスティスの神話自体に包含される倫理的かつ視覚的要素を検討し,これらの要素がヘディステの「産辱の床における若妻の死」のモチーフと意外な類縁(両者のテッサリア地方という地理的類縁を越えて)を持つことへと論を進めたい。以下の2点が類縁の要素として挙げられる。1)ヘディステ,アルケスティスの両者ともその死因は社会的に特別の名誉に値するものであった(倫理面)。2)両者とも演劇的イメージを喚起する(視覚面)。当時のテッサリア地方の人々が,「ヘディステの墓碑」にあてはまる上の2点を通して,墓主ヘディステと,同地方の伝説上の名誉ある若妻アルケスティスのイメージを重ね合わせたのではないかとの仮説は全く蓋然性が無いとは言えないだろう。この仮説は,ローマ時代(紀元2,3世紀)の石棺の図像としてアルケスティスが好まれ,墓主の肖像がアルケスティスの像に壌め込まれた(Wood1978 ; Grassinger 1994)ことからも支持される[図2: Vatican, Museo Chiaramonti 1195]。-80-

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