① 正岡子規の絵画観研究者:京都市美術館学芸担当係長塩川京子はじめに正岡子規はそれまでの堕落した月並俳句から,文芸としての近代俳句を確立させた功績者である。彼が俳句を清新なものに再生させたのは"写生”に依るといわれている(和歌の場合も同様),また彼は写生文を提唱し,ージャンルを確立している。子規文学の一大要素は写生であるといっても過言ではない。彼は明治25年"実景を俳句にする味を悟った”(子規全集興味を持つようになったという。加えて,下村為山,中村不折,浅井忠といった洋画家達との交流によって写生のはっきりした輪郭づけがなされ,内容を深めていったのである。子規はこれらの洋画家達とどの様に交流し,何を得,どの様に子規文学に肉付けしたのであろうか。そして子規の写生というものの一端を考えてみたい。1.下村為山・中村不折と子規下村為山は子規と同郷の画家で,小山正太郎門下である。為山が子規と出会ったのは,彼が常磐会寄宿舎に居た頃だという,となると明治22年頃から24年頃のことであろうか。子規は元来,日本画崇拝者であった,日本画崇拝論を為山に吹っ掛けたところ,為山は日本画の丸い波は海の波でないとか,日本画の横顔と洋画の横顔を並べて描いて見せて,その違いを示したが,内心,子規は成るほどと感心はしたものの,"形似は絵の巧拙に拘らぬ”(全集第12巻"蜜”)として洋画を認めようとはしなかった。明治27年,子規が編集担当した新聞「小日本」の執筆画家として,中村不折を浅井忠より紹介される。不折も子規同様,議論好きであった,"僕が富士山は善い山だろうというと,不折君は俗な山だという。松の木は善い木であろうというと,俗な木だという。……略……一々衝突するから,同じ人間の感情がそれ程違うものかと,余り不思議に思ってつくづくと考えた。其内ふと俳句と比較して見てから大いに悟る所があった。”(同書)俳句に富士山を入れると俗に陥る,松も同じ。つまり様式や概念ばかりが先行して平成5年度「美術に関する調査研究の助成」-1-第3巻)ことから写生へ
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