鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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w.公的空間に配された死体の視覚表現の問題て不死性を獲得した神話上の人物として石棺の装飾に好んで採用されたことは特箪に値する(Richardson1979)。3)パウサニウス(I.20. 21)によれば,アテネのディオニュソスの神域に「置き去りにされたアリアドネ」の主題の壁画が存在し(現在は消失),この記録は「ヘディステの墓碑」や当時の民衆芸術が大壁画の影響下にあるとする一般説にも添う。本稿では,「ヘディステの墓碑」の当時の鑑賞者の意識の中に,名誉ある死を遂げたヘディステと,ギリシア神話のアルケスティス(夫に文字通り命を捧げた理想の妻像)またはアリアドネ(死/眠りを克服し不死性を獲得した女性像)が重複して見られた可能性を提案する。「ヘディステの墓碑」における死体のイメージの演出はこれまで顧みられなかった問題である。上半身顕な若い女の遺骸の描写は,挑発的でしかも当惑させられるイメージであるが,これは「ヘディステの墓碑」に限った表現ではなく,西洋文化において文学,造形美術を問わず古代後期より現代に至るまで登場する(Bronfen1992)。本稿は,単に「ヘディステの墓碑」に従来指摘されてきたような現実空間の写実的描写の萌芽をみる(Pollitt1972, 1986)のではなく,以下の2点の説明を試みる。まず第一に,このイメージは産褥の床で命を落とした若い女の社会的位置付けを戦場で戦死した兵士と同格に引き上げる社会の価値観を具体的なイメージで示す。言い換えれば,社会における女性の理想的役割を視覚的に再確認する効果を示す。第二にはそれは西洋美術における女性の身体の連綿としたイメージの一端を担う点である。この第二の点は,当時の社会における女性の抑圧された立場を示す指標とする(Foley1975, 1981),または女性の成長過程における重要な区分点を示すものとして肯定的に捉える(Abram1992)など,解釈に多様な可能性がある。それだけにいかにこのイメージを読むか,我々のギリシア葬礼芸術に対する理解の再検討を迫るものであることが明らかであろう。このイメージを単にイデオロギーを伝達する手段とみることも,または社会の状況を写し出す鏡とみることもそれだけでは十分ではないと思われる。ここで想定されるのはヘレニズム時代に特に顕著となった,特異な状況における肉体の描写への関心であり,墓碑上で死体のイメージはイコンとなる。このイメージは視覚の連鎖作用によって,ギリシア神話のアルケスティスあるいはアリアドネと重複し,更に視覚イメ-82-

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