鹿島美術研究 年報第11号別冊(1994)
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された阿弥陀堂である。「鳥羽勝光明院供養願文」(『本朝続文粋』所収)には,同院の堂内の様子について次のように記されている。鳥羽勝光明院供養敬白建立瓦葺二階ー間四面堂一宇。奉安置皆金色一丈六尺阿弥陀如来像一鉢。光中離刻大日如来像一鉢,十二光佛,廿五菩薩像。鏡面書寓梵字阿弥陀小呪一遍。天蓋顕飛天像八鉢。四柱園箱胎蔵金剛雨部諸尊像。四面扉圃綸極柴九品往生井迎振儀式。四面廂造顕二尺五寸普賢菩薩,文殊師利菩薩,虚空蔵菩薩,弥勒菩薩,地蔵菩薩,海恵菩薩,維摩居士等像各一鉢,二尺諸大菩薩,及天龍八部像二百廿三鉢。佛後壁表裏園綸廿五菩薩像井極架九品髪像。二階上安置金色七尺五寸金剛法利因語等菩薩像,彩色四尺五寸伎栗菩薩像舟二鉢。(後略)勝光明院は瓦葺の二階ー間四面堂で,内陣には本尊丈六阿弥陀如来像を安置し,四面庇に普賢,文殊菩薩像など二百三十体,二階には金剛法利因語などの菩薩像と伎楽菩薩像三十二体を安置するという賠しい数の群像が本尊を囲饒していた。四本の内陣柱には両界曼荼羅の諸尊,四面扉には阿弥陀九品来迎図と迎摂儀式,仏後壁の表裏には二十五菩薩と九品の阿弥陀浄土変相図が図絵されていたことがわかる。勝光明院の造営の経過は,同院の建立に携わった源師時(1077■1136)の日記『長秋記」に詳細に記録されている。同書長承3年(1134)4月10日条によれば,この日師時は烏羽上皇のもとに参じ,菩薩像二十六体と長押の上に据える二十五菩薩像の絵様を上覧に入れたはか,堂内の細かな荘厳にいたるまで指示を仰いでいる(注4)。その中に「又,瑠璃壇口・ロコ本鏡佛像は,烏羽御堂を模すべきか。仰せて云く。汝の申す如くに。」(原漢文)(注5)という記事が見え,師時が勝光明院の瑠璃壇(七宝を散りばめた須弥壇)と内陣柱を飾る鏡仏像について鳥羽御堂の例を模すべきかを尋ねたところ,上皇は師時の提案を受け入れ,御堂に倣うよう命じたことが伺える。これによって,勝光明院の内陣柱には鏡仏像と称する尊像が飾られたことが推察できる。鏡仏像とは,名称を率直に解釈すれば,鏡面(あるいは金属板)に仏像を表現したものと推定することができ,鏡像や懸仏に近い形式の腺像であったと考えるのが穏当であ敦光朝臣-91-

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