鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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3 資料の分析* Iに分類される資料大応派ははやく大燈国師が大徳寺の法燈を自派に限るなど,大応の祖師禅を具体的に実行してきた。とくに北部九州の大応派の根拠地であった崇福寺の世代(表2)をその関係の禅僧とする。その世代は近世に整備されたものであるが,一つの目安として利用した。そして,その係わりから次のように資料を分類することとした。II その他の禅僧と関係する資料III 禅僧とは関係ない資料なお,近世以降寺院に入った資料はそれぞれI',II', III'とした。このように当地に所在する大応派の寺院を地域的な広がり,いわば共時的な要素として,そして,大応派の禅僧を時間的な繋がり,いわば通時的な要素として資料の位置付けを試みた。(図I,2参照)(絵画)大応国師像1幅興徳寺(福岡市西区姪浜)絹本著色典型的な頂相のスタイルで曲菜に座し,竹箆を持った姿の像主を描く。絹本に全体を茶系統の色彩で統一し,面貌のこまやかで丁寧な描写は,宋代の肖像画の習得のうえで,柔らかく繊細な日本的な頂相のさきがけとなったともいえる肖像画といえよう。本図は大応国師が九州で最初に住持となった筑前早良姪浜の興徳寺に伝わる。賛も大応自身によるものであるが,賛が書かれた徳治2年(1307)は大応がすでに九州になく,京都へのぼり,さらに鎌倉へ下った時期である。絵を描かせ,賛を請うた善女宗恵が如何なる人物であるか不明であるため,当初より本図が興福寺に所蔵されていたかはわからない。図の裏面に書かれた墨書により,元和8年(1622)江月宗玩が興徳寺の什具として修理したことがわかる。したがってこの時にはすでに興徳寺に所蔵されていたことがわかる。キーワード;南浦紹明(大応国師)*興徳寺*江月宗玩2 大応派としての位置付けI 大応派の禅僧と関係する資料竪100.8センチ横55.8センチ-90-

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