鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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年年の法語,京都真珠庵蔵の法語などである。キーワード;崇福寺*南浦紹明代;永仁2年(1294)分類;A-I (I') -13century 洪山宗範墨蹟謝両堂首座上堂1幅崇福寺紙本墨書竪34.7センチ横83.3センチ洪山宗範は崇福寺32世。大応国師の法嗣秀崖宗胤(崇福寺9世,聖福寺30世)の法を嗣いだ。聖福寺に転住して49世となり,塔頭光福院および天得庵を開き,応永3年示寂した。本資料は洪山が上堂の説法を行った時に両堂の首座の乗彿を謝したものである。1易文の中に此君亭と雷音堂,そして款記に円通閣という崇福寺八景と呼ばれた境致が詠み込まれている。崇福寺八景は大応が選んだと伝えるが,近世の記録や詩文に見出されるはかは本資料以外には見られない。なお,款記に「至徳蒼竜乙丑冬節後三日書子/円通閣下以塞流首座請再/露醜悪可/寓横岳老納洪山隻宗範」とあり,至徳2年(1385)に書かれたことかわかる。キーワード;崇福寺*洪山宗範*此君亭*雷音堂*円通閣代;至徳2年(1385)分類;A-I -14century 雪谷宗戒墨蹟虎丘十詠跛文1幅福岡市博物館(旧妙楽寺)紙本墨書竪29.5センチ横44.0センチ虎丘十詠は大応の師虚堂智愚が虎丘山にあった時に,その十の境地を詩に詠んだもので,今日MOA美術館に所蔵されている。本資料はその虎丘十詠に元明の諸尊宿が践を加えたもののうち,最後の一つで,十詠とその跛が妙楽寺にもたらされた経緯を記す。すなわち閑極法雲,東巌浄日,雲外雲袖,霊石如之らの践を得た虎丘十詠は妙楽寺の恒中宗立,石隠宗理によって日本に持ち帰られようとしたが,百年近い年月の後,成化13年(1477)大応の法孫である雪谷がやっとその願いを果たそうとしたというものである。この跛文はいくつか現存するほかの践文と共に『石城遺宝』に記される虎丘十詠及び践文の内容が実在した証であり,それは中世の大応派の寺院である妙-92 -

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