年楽寺が元明の多くの禅僧から知られるところであり,この地が大陸との交易の中心であることから,人物の興隆が妙楽寺を通じて頻繁に行われていたことが知られる。なぉ,虎丘十詠とその跛文についてはやはり江戸時代になって江月宗玩が幾つかを見ており(墨蹟の写・崇福寺蔵),そのときにすでに分断されて他所に渡っていたことがわかる。また,本資料に江月,玉室宗珀,沢庵宗影の3人による点字と跛文が添付されている。キーワード;虎堂智愚*妙楽寺*雪谷宗戒*江月宗玩*玉室宗珀*沢庵宗影*江月宗代;成化13年(1477)分類;D(A) -I -15century (書籍)『石城遺宝』1冊妙楽寺.勝福寺元禄12年(1699)妙楽寺の住持性宗紹宙が編者となって妙楽寺に伝来していた墨蹟を刊行したものである。その内容は先に述べた虎丘十詠とその跛文ほか,妙楽寺の楼塔であった呑碧楼を日本と中国の僧が詠み合った詩文,そして妙楽寺開山月堂宗規,3世無我省吾,そして4世無方宗応に宛てた中国僧の詩文などである。これらの原本はおそらく近世初期には散逸しはじめていたようだが,その記録が妙楽寺にのこり,それを版本として刊行したと思われる。これらの文から崇福寺の一末寺であった妙楽寺が外交上非常に大きな役割を果たしていたことが知られる。虎丘十詠の跛文以外は無我省吾の庵である心華室の銘について書いた楚石梵埼の墨蹟が永青文庫に所蔵されるほか管見では知られない。無我省吾は花園天皇の子の伝えがあり,妙楽寺開山月堂に法を嗣いだ。中国への入国の折に彼の地の諸尊宿に参禅するとともに,詩文を依頼したようである。「大応国師埓銘Jは用章延俊に無我が依頼したものである。来朝の経験のない中国僧が妙楽寺に関する詩文を詠むのも無我の依頼によるためと思われる。呑碧楼は『石城遺宝』に詠まれた詩文からすると高層の楼閣で海が一望できる眺望を擁していたようである。しかし,惟肖得巌の詩2首の序によれば,惟肖72歳の永享3年(1431)にはすでに呑碧栢は崩壊して,再建されることはなかったようである。キーワード;性宗紹宙*妙楽寺*月堂宗規*無我省吾*無方宗応*呑碧楼玩墨蹟の写-93 -
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