鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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年代;鎌倉時代*南北朝時代*室町時代分類;A-II -13 (14, 15) century 釈迦如来及び両脇侍像3謳崇福寺像高(釈迦如来)106.2センチ(普賢菩薩)(文殊菩薩)釈迦は高く髯を結い,菩薩の姿をして,膝上で禅定印を結ぶ,いわゆる宝冠釈迦像である。像の体内胸部に陰刻の銘文があり,造立の経緯がわかる。「大仏師法印院什/周防州永興禅寺/住持比丘祖肇/正平十七年十一月十九日/大檀那大内介多々良弘世」すなわち正平17年(1362)周防永興寺(岩国永興寺)の仏像として,大仏師法印院什が制作したもので,檀那は大内弘世である。また,膝前裏にも陰刻の銘があり,寛永17年(1640)崇福寺住持江月宗玩かこれを修理したことがわかり,このときには崇福寺に安置されていたことがわかる。「寛永十七庚辰年/十月日/崇福寺住持江月曳宗玩/修補」本像は江戸時代に黒田長政が焼失していた崇福寺を太宰府から現在の博多千代(福岡市博多区千代)の地に整備する際に,周防永興寺の仏殿と共に移されたとする伝え(『筑前国風土記付録」「崇福寺」の頃)があり,おそらく江月の修理のころに崇福寺にもたらされたものと考える。本像の作者院什は中央の院派の系譜中には見当らず,位置付けしにくいが,法印の僧号位を冠しており,像も体部前後材から補強の束を彫り出すほか,地付きにもいわば像心束を作り出すなど院派仏師の造像の特徴を示しており,当時の院派仏師の中心仏師院広らとは別のグループの一人ではないかと考えた。とくに周防長門の守護大内弘世の庇護を考えると当時勢力のあった大内氏の領地に下向して造仏を行った可能性も含めて考えたい。それは同じく院什作の銘のある釈迦如来像が徳山市竜文寺に安置され,ほかに防府市阿弥陀寺の仁王像に院字を冠する仏師銘が記されるなど,南北朝時代に周防を中心に院什ほか院派仏師の業績が残るためでもある。本像造立の時に永興寺の住持であった(心初)祖肇は夢窓派で春屋妙把の法嗣である。永興寺は高峰顕日が周防に来たおりに開いたと伝える。なお,『円通大応国師語録」の「太宰府崇福寺54.5センチ54.5センチ-95-

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