分類;A-III(Iカ)ー15centuryまとめ資料を崇福寺など九州の大応派の拠点となる寺院,そしてその歴代住持との係わりを明らかにすることで,九州の大応派の文化を表す資料としての位置付けを試みた。中世に遡る資料は存外に少なく,それらによって禅宗の一派の文化を語るのは無理があるようにも思える。しかし,そのようなわずかな資料のなかにも墨蹟や文献(書籍,古文書)のなかに,近世の資料にもみえる太宰府横岳の崇福寺八景の名称や崇福寺時代の南浦紹明の筆跡が見出されるのは貴重である。また,無我省吾を中心にして博多妙楽寺に住した僧と中国の禅僧が詩文の交流を行ったことが,『石城遺宝』に詳しく見られる。その一部は福岡市博物館本の虎丘十詠跛文ほか今日にも残されるか,多くは近世初期に失われていたことが,江月宗玩の墨蹟の写に見られる。江月の墨蹟の写は崇福寺に所蔵されるが,それは中世の禅宗文化を伝えるすぐれた記録で中世と近世を繋ぐ働きをしているといっても良い。江月と当地の文化については別に機会を設けたいが,黒田家の如水,長政らの肖像のほか,雲谷等顔の描いた博多の豪商島井宗室の肖像など語るべき資料は多い。また,上記の資料中の院什作釈迦如来坐像も江月によって崇福寺に安置されたのではないかと考える。なお,無隠元晦像を安置する長崎県壱岐郡芦辺町の安国寺や景轍玄蘇や規伯玄方を歴代住持に数える福岡県宗像郡玄海町の承福寺はもとは幻住派の寺院であったと思われる。幻住派については玉村竹二氏の論及に詳しいが,元代の中峰明本に直接師事した無隠元晦をはじめ,筑前では15世紀後半から幻住派を称する一群の禅僧が興隆した。その中には幻住派を全国に知らしめた一華碩由や策彦周良と共に明への勘合貿易の正使となった湖心碩鼎らがいる。これら幻住派の興隆は江戸時代になると急速に終息したが,同じ林下の一派として大応派がそこへ入ったのかもしれない。ともかく大応派について調べることによりわずかに残る筑前の幻住派の一面を知ることとなった。はたして九州の大応派の文化とは如何なるものであるのか,これら資料により語るばかはないのであるが,華々しい崇福寺の初期の住持たちの顔ぶれにしては崇福寺に残る彼らの事跡は少ない。しかし,末寺妙楽寺の博多での隆盛は中国の諸尊宿の詩文をその楼塔である呑碧楼に与えられたり,妙楽寺住持に宛てて書かれたり,当地の寺眩ならではの対外交流か見られる。その後は無住の時期があったり大徳寺瑞峰院の恰-97 -
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