雲宗悦が大友氏に依頼されて経営するなど,独立した活動ができない時期があったようだ。(崇福寺文書)ただし,長禄三年(1459)年に宗閣西堂が公帖を受け,十刹の位置にあったことを知る。彼らの中には墨蹟を残す洪山宗範ら聖福寺に転住する僧もおり,大徳寺ほど派内の結束か固くはなかったように思える。逆に聖福寺が十方住持制を守り,多くの派の禅僧を受入れたとも考えられる。また,崇福寺と共に円爾が開いた承天寺は円爾の一派が歴住しているが,初期において住持が交流していることからその正確な寺史を知る必要がある。このように当地における禅宗寺院同士の係わりも踏まえながら,さらに大応派の位置付けを図る必要があるであろう。しかし,禅宗文化が京都,鎌倉のみで語られるものではなく,大応派という一派をもとに博多において禅宗文化が育まれていた形跡をわずかながら示せたのではないかと考える。Keyword群-98 -<禅僧〉I 崇福寺歴代住持ら大応派禅僧と関係する資料II その他の禅僧と関係する資料III 禅僧とは関係ない資料く所在〉図lA ;崇福寺及その関係寺院B;円福寺及その関係寺院c ;その他(この中には長崎県壱岐郡安国寺はか大徳寺派寺院など近世以降大徳寺派に転派した寺院が含まれる。)図2
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