くさぞうしこじつけねんだいきすりものやまとえしのなづくし① 葛飾北斎と江戸狂歌連の研究研究者:財団法人日本浮世絵博物館研究員久保田一洋【一】葛飾北斎(1760■1849)の摺物は手元で八百六十余点を数えた。しかし,この数値は僅かな調査の限りでしかない。他にも存在すべくして未確認の作品も残される。なお一層の調査に期待されるところも多いが,未知数ながら大胆に予想すれば,北斎が生涯で残した摺物は千点近い数にも達すると思われる。膨大な数に上る摺物を制作した北斎の姿を,当時の文化人も記録に書き留めた。大田南畝(1749■1823)原撰『浮世絵類考」は,北斎(当時は「宗理」号)を「これまた狂歌はいかゐ等の摺物識に名高く,浅草大六天神の脇町に住」と書き始めている。後年,斎藤月本は『増補浮世絵類考』(1844補)に「宗理の頃は狂歌の摺物多し,錦画はかかず」と補い,さらに「未だー派をなさず」と続ける。ところが,北斎が「宗理」から「北斎」へと改名して間もない享和二年(1802),この年正月発刊の式亭三馬の黄表紙『稗史億説年代記』で,早くも北斎は独自の一派をなす絵師として歌川豊国・喜多川歌麿と並び記録されている。同書下巻「画工画のかき方又々当世にうつる」以下,「うた麿当時の女絵をあらたに工夫する。北斎独流の一派をたつる。豊国やくしやにかほゑに名誉,うた麿のにしき絵,北斎のすりもの,世におこなわる」とある。三馬は同書巻頭の「倭画巧名盈」でも当代浮世絵師を島に見立てる中で,歌麿・北斎の二者をいずれの画派にも寄らない孤島として描き示した。北斎独自の一派とした判断は,「北斎のすりもの,世におこなわる」の部分に示されるものと思われる。これは実際の統計結果からも判断できる。現在迄の筆者の統計によれば,五七0余点の摺物が「北斎」落款で描かれ,その半数近い二六0余点が「画狂人北斎」ないし「画狂老人北斎」の落款で描かれている。北斎が「画狂人北斎」を名乗るのは享和元年春が初見である(摺物「笠に摘草」)。『浮世絵類考』の限りでは北斎は「宗理」を号した寛政後期に摺物を多く描いたとされ易いが,実際には次期の享和年間の方が多いのである。三馬の記述や統計結果から,北斎が摺物によって江戸社会に果した役割は大きかっI.「美術に関する調査研究の助成」研究報告-1-
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