鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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おおねのふときなひろめにそうじたと推測される。斎藤月本の言葉を踏まえれば,北斎は摺物の分野を開拓し,彼独自の一派を築き上げた絵師とも言えるであろう。北斎の摺物の多くは,江戸の文芸界,特に狂歌連と密接な関係をもって制作されている。天明年間,北斎が勝川派の絵師「春朗」を号した時期には,彼の摺物は余り知られていない。当時の摺物は絵暦ないし俳諧関係の作品が中心であり,これらは既に書店の店当で売品にもなっていた(朋誠堂喜三二『長生見度記』)。江戸で最初に狂歌の摺物を作った人は大根太木であるという(南畝『奴師労之』)。しかし,その年月および太木の没年月さえも今なお判明していない。年次が明らかな記録は,天明五年(1785)二月,市村家橘の所作事大入を記念する摺物を「芝居狂歌すり物のはじめ」と記している(南畝『俗耳鼓吹』)。この時期の北斎は勝川派の絵師として役者絵を主に描いていた。現在,年次が判明する北斎最初の摺物も,春朗落款で描かれた「五世市川団十郎の暫」である。天明七年の絵暦であり,団十郎の肖像にこの年の小の月を組み入れている。作品は早くに長谷部言人『大小暦』(1943)で図版掲載されており,現在ケルン東洋美術館に所在が知られている。この絵暦を配った人物は立川焉馬(1743■1823)であった。彼は自ら「談洲楼」を号した市川団十郎贔属である。天明六年,彼は団十郎の贔贋連「三升連」を結成し,翌年正月から団十郎の肖像を描いた絵暦を配り始めた。三升屋二三治『貴賤上下孝』形式で作られた絵暦を配り続けたと言われ,現在それらは各地に散在している。さらに焉馬没後も同型式の絵暦は二世焉馬が継承した形跡があり,狂歌を二世焉馬のそれに代えた文政十二年(1829)の絵暦がある。絵師は歌川派の絵師が多いが,焉馬が選んだ最初の絵師は春朗こと後の北斎だった。絵暦「市川団十郎の暫」は,北斎だけでなく三升連にとっても最初の摺物であり,記念すべき一点である。寛政年間に入り,狂歌摺物は盛んに作られ始めた。斎藤月本は『武江年表』寛政年間記事中に「すべて狂歌名弘の摺物に蕨人刷工の巧を尽し花麗を極むる事,此の時代より盛なり」と記している。柳川亭『享和雑記』序文には,享和年間に至って狂歌を【二】(1847)や『大小暦』によると,焉馬は没する迄毎年欠かさず同じ狂歌を載せた同じかりゅうやつこだこ-2-

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