と明記されることがしばしばみられ,画像と同様「真」あるいは「影像」の名で呼ばれたり,「塑禅師像」(『佛光国師語録』,「塑」は木像にも用いることもある)あるいは「安祖像」(『大明國師無闘大和和尚塔銘』,「安」は画像に用いることもある)などの語句から推測することもできる。さて,禅僧の肖像彫刻の造像目的として先ず上げるべきは,他の肖像彫刻と同様,祖師,開山に対する崇敬,礼拝のためである。禅宗では,夢窓疎石(1275-1351)の「三會院遺誡」(『夢窓國師語録』)に「尋常塔頭。守塔侍者於影像前晨昏表奉事之義。」とあるように,祖師に対する恒常的な礼拝は特に重んじられているようである。また,謡曲「車僧」のモデルとなった深山正虎(-1334)は師直翁智侃(1245-1322)の東福寺の塔・光明蔵院に出掛けるごとに木像に供物を供え,臨終の十日前には木像に礼辞したという(『深山和尚行状』)。彫像の場合は,画像に比して,こうした日常の礼拝の対象により適していることは明らかで,また立体であるが故に礼拝者にとっては肖像としての存在感がより強く感じられるであろう。ここで注目すべき点は,禅僧の肖像彫刻の初期の作例がしばしば像主の塔(墓)と一緒に安置されているのが判明することであり,その代表的な遺例としては共に塔の上に木像を安置する興国寺・無本覚心(1207-98)像と龍吟安・無関玄悟(普門,1212-91)像があげられる。また南禅寺の塔所である大雲庵に当初伝来したとみられる南禅院・ー山一寧(1247-1317)像も,大雲庵に享堂があったことが判明し(『天下南禅記』),また現存しないが建長寺の一山の塔所・玉雲庵にあった国師像も享(饗)堂に祀られていたことが知られている(『雪村大和尚行道記」)ので,本来大雲庵の享堂内の塔前に安置されていたことが推測される。こうした肖像と遺骨を一体化する安置法は,これらの像主が入宋僧や中国僧であることをみても中国から伝えられたものであろうか,肖像の真容性をより高める効果を有していよう。現在彫像の多くは塔頭の方丈の室中奥室(仏間)やその奥の祠堂に安置されるが,このような安置方法は中世もかなり下ってからのこととみられ,その初期の彫像は上記のように塔と密接な関係を有するものがかなり多かったことが推測されよう。したがって,禅像肖像彫刻は通常遺像となろうが,痔像も造像されたことが知られている。寿像の問題については,後ほど改めて触れるが,それが造像されたのは,像主の他寺への遷住といった問題もあろうが,上記の安置方法を考慮にいれると,禅宗特有の痔塔の問題が深く関わるように思われる。すなわち,中国では虚堂智愚(1185-1269)が痔塔をたてる(『虚堂和尚語録』)など南宋時代には舟塔-115-
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