(1339)に南禅寺の開山塔である天授庵が建てられ,塔(霊光)に祖像が安置されて1351),春屋妙砲(1311-88)のいずれも70cm弱ほどの三像が安置されているが,こ1276〕の木像が造られたことが記されている)。このように祖師像の造像が盛んになれは広く認められ,わが国においても鎌倉後半頃には出現している。死後に備え,自らの墓と一体になる肖像を安置することも,当時はさはど違和感なく受入れられたのであろう。もちろん,初期の場合でもすべての肖像彫刻が塔と一体化して安置されたとは限らない。円爾(1202-80)の法嗣・東山湛照(1231-91)は師の像を自坊・三聖寺に安置したことか知られる(『東福寺開山聖一國師年譜』。但し,この像は後に円爾の塔所に移される。),これは自らが国師生前に仕え,あるいは日常崇敬するために造られたものであろう。時代は多少下るが,例えば業海本浄(-1352)が文和2年(1353)に造った棲雲寺・中峰明本(1263-1323)像(現存)や,月林道絞(1298-1351)が長福寺に安じた古林清茂(1262-1329)像(『月林絞善師行状』)など,入元僧が中国での嗣法の師の像を造像するのもこの例になろう。なお,各門派あるいは寺院にとって,その祖師像や開山像は単に礼拝の対象だけではなく,門派や寺院を維持,発展させるための象徴的な意味合いも有している。したがって,没後かなり経た時期においてもこの種の像はしばしば造像され,例えば南浦紹明(1235-1308)の建長寺の塔所・天源庵は師の没後,二十余年後に建てられ,そこに肖像が安置され(『竺遷和尚語録』),また無関玄悟(普門)没後48年経た暦応2年いる(『大明國師無関大和尚塔銘』)。また,自らが開いた寺院の開山にその師を招く事もしばしば認められるが(時には師の没後の場合も多い),そこに安置される開山像も同様な傾向を有しよう。山ロ・永興寺には高峰顕日(1241-1316),夢窓疎石(1275-れらの肖像は臨済宗寺院の正系としての由緒の深さをあらわすものである。さらに,時代が下ればこうした傾向に一層拍車がかかり,開山等の嗣法の師である祖師の像をも造られるようになる(例えば,東福寺では文安2年〔1445〕に無準師範〔1177-1249〕の木像が造られ〔「佛鑑禅師像記」〕,あるいは『友山録』には100年忌に冗篭普寧〔1196-ば,堂内に安置される彫像はかなりの数になり,あるいは禅僧の肖像彫刻が一般に時代とともに大きさか小さくなっていくのは堂内に複数の像を安置することを前提にしたものかもしれない。ただ,注意しなければならないのは鎌倉五山に関連する遺品は,鎌倉,南北朝期の古像でも等身より一回り小さなものが圧倒的に多い点である。例え-116-
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