鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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81)像(『無規矩集』)が知られる程度で(「大休和尚語録』の「蔵六庵安頭相」という〔1285〕の年記がある)や,その塔所・龍吟庵は師の没後間もない頃(少なくとも2福寺開山聖一國師年譜』,『法照禅師十乗坊行状』),無本覚心(十三回忌,『法燈園明国師之縁起』),無学祖元(『仏光国師語録』),高峰顕日(同前),直翁智侃(『深山和尚行状』)等がある。一方,痔像であることが明確なものは,遺品では高城寺・蔵山順空(1233-1308) 像(納入品,1300年),正統院・高峰顕日(1241-1316)像(銘文,1315年),正伝庵・明岩正因(1285-1369)像(銘文,1365年)のみである。一般にこの種の代表作にあげられる安国寺と興国寺の無本覚心(1207-98)の2像については後述のように少しばかり検討を要する。これら遺品の内,高城寺像や正統院像は像主の遷住に伴う造像と見られ,興国寺像はこれを痔像とするなら涛塔との関連による造像のように思われる。文献史料からは,管見では興国寺の無本覚心像(『法燈園明国師行賓年譜』,1293年作,前記現存遺品の造像年代は通常1286年とされるので,この像は現存遺品と異なる像とするのが一般的である)と,自ら像の開光安座したことを記す天境霊致(1301-法語から大休の痔像があったとする見解もあるが,この法語はかなり難解であり,これに関しては保留する),その例はきわめて少ない。『仏光国師語録』を始めとし,史料の中には敢えて「遺像」とことわるものかあるところを見れば,これに対応する「寿像」の造像もしばしば行われていたことが史料の上からも推察されるが,遺像に比べるとやはりかなり特殊なものであったことを窺わせる。(3) 遺品の検討ここでは今回検討を加えた禅僧の肖像彫刻の遺品の内,5例を取り上げ,製作時期の問題を中心にその造像の実態について考察する。①無関玄悟(普門,1212-91)像(図1)(龍吟庵)東福寺3世及び南禅寺開山の肖像。「眼三角而重瞳。耳卓朔而重輪也。」(『無関和尚塔銘』)と伝えられた国師の面貌が如実に再現され,また唇の下の税や両眉辺の痘痕などもあらわされ,その生彩ある面貌の描写の迫真性はこの種の彫像を代表するものと言ってよく,また衣文を始め体部の表現も的確である。本像の製作時期を明確に記す資料はないが,像内に国師所縁の品々を収めていたこと(内,「九重守」には弘安8年年後)に成立していた可能性が高いことなどからすると,師の没後間もない頃に造ら-118-

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