鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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れた遺像とみられる。国師の墓は,龍吟庵に当初のものと寛政期に改葬されたものと二つあることが知られているが,寛政墓には当初墓から移されたと思われる永仁2年指摘されている(影山春樹「無関禅師骨蔵器」〔『佛教藝術』48〕ほか)。さらに『佛照禅師語録』には無関の三回忌の陸座に関連して肖像画に対する点眼の法語も認められる。墳墓に安置されていた本像の造像の契機としても,この頃が適当な時期であるように思われる。なお,頂相画は自賛のものが天授庵に残るが,面貌のみならず,鑽鉤,吊紐の形式,あるいは衣文の扱いなどに彫像との親近性がかなり認められる。②無本覚心(1207-98)像(図2)(安国寺,興国寺)紀州・興国寺(西方寺)及び京都・妙光寺の開山の肖像。国師の彫像は安国寺,興国寺,クリーブランド美術館,円満寺,安養寺(長野),福島・天栄村,妙光寺等に伝えられる。クリーブランド美術館像以下の像は前二者に比べると製作が遅れるようで,また中には像主の検討を要するものもある。安国寺と興国寺に伝えられる2像はともに鎌倉時代を代表する優品でいずれも納入品の年記から通常前者は建治元年(1275)の,後者は弘安9年(1286)の作とみなされ,国師の70歳(厳密には69歳)と80歳のイ象とされる。ところで安国寺像の制作年代の決め手とされる納入品とは仏眼真言以下の諸真言と国師の中国での嗣法の師となった無門慧開にはじめて謁えた時に与えられたという偶を書し,最後に年記と「覺心」の署名をあらわしたものであり,直接造像(1294)銘の経筒が発見されており,国師の墳墓構築の時期がこの頃であったことが-119-図1

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