よもさんだらあけらかんこうやどやのめしもりつぼすみれ疎遠になってゆく。この時期を境に狂歌界は新たな局面を迎えた。黒川春村『壷菫』つぶるのひかりは狂歌堂真顔を始め後に「四方側」と呼ばれる狂歌師が集まり,「北のかた」は頭光けい媒体とした遊宴は遊廓で大々的に催され,狂歌師達が「歳旦摺物に無益の財を費やす」と言うほど摺物に熱中していた様子がうかがえる。この時期,江戸で狂歌会や狂歌摺物が盛んになった背景には,当時の狂歌界で各々の狂歌グループが互いに勢力拡張を図った事情が考えられる。寛政初年,寛政の改革の余波で幕臣大田南畝は狂歌から筆を遠ざけ,同じく幕臣の朱楽菅江も寛政三年『狂歌大体』序文に,以前の天明調狂歌からの転向を述べた。同年末には宿屋飯盛も家業で罪を被り江戸払いとなり,それまでの江戸狂歌界を先導した有力人物は狂歌界からを中心に彼に追従した狂歌師が集まった。『壷菫』は双方の動静を「ある人いふ,南北の月次の歌会,かたみにいどみあひて,おこたりなしといへども,光翁のかた,にぎは、しこと十倍せり」と伝える。「北のかた」には,浮世絵師としても著名な窪俊満や,浅草市人(1755■1820)と三陀羅法師(1731■1814)が参加している。この両者は,狂歌堂真顔に次いで有力な狂歌師として特記されている人物である(『奴師労之』)。寛政八年(1796)四月,頭光が歿した。統率者を失った「北のかた」では,浅草市人・千種庵霜解・樵歌亭笛成が三者合評による狂歌会を始め,光歿後の「北のかた」を協力して統制しようとする気配がみられる。だが翌寛政九年,市人と笛成の間に不和が生じ,市人は「南のかた」であった真顔・大屋裏住と手を結んだ狂歌会を開いた。また同年,市人は自らを主催者とする月次狂歌会を始めている。この浅草市人こそが,自らの勢力を拡げるために,北斎を起用し,最初に多くの摺物を制作依頼した人物である。北斎の摺物には,四十余点に市人の狂歌が載る。彼は最多登場の狂歌師である。市人が統率する狂歌グループは,式亭三馬『狂歌隅』(1803)では「浅草側」と名付けられ,一般に「壷側」とも言われるが,市人の印が壷形である点から与えられた呼称のようだ。壷形は茶席で用いる「つぼつぼ棚」の透かし模様と同形で,この壷形は浅草側の摺物にも描き込まれ,市人の門人も度々同じ壷形を随所で使用している。北斎は寛政七年正月,春朗号を廃し「宗理」に改名した。しかし,これは同年正月刊の狂歌絵本『江戸紫」中,宗理落款の「年礼図」を唯一の裏付資料として語られてきたものである。記録上は『大小暦』に同年宗理落款の絵暦二点が存在するとあるが,(1837)は,当時の狂歌界が南北大きく二つに分かれていたと伝える。「南のかた」に-3-
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