鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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について触れたものではない。安国寺の前身となる金宝寺の創建は丁度このころであるが,現存する本尊・善光寺式阿弥陀三尊像の銘文・納入品の中には覚心の名前は見出されない。江戸期の福山藩の史料「水野記」には本寺に国師の木像があることに疑問を呈し,覚心を没後40余年のちの請来開山としていることや,また師の行状類には金宝寺との関係は見出だされないことも併せ考えると,本像の製作時期や伝来については改めて検討すべきであろう。ところで,安国寺像の表現は興国寺像にきわめて近似しているが,面貌はより若く弘安8年の自賛のある円満寺の画像(表面は補修があるが,描線の変更まで至らないと思われる)に近い。一方,興国寺像は,定印を結ぶことを除けば,同寺に伝わる正和4年(1315)の一山一寧著賛像に面貌のみならず左手から垂下する袈裟の衣端のうねりといった細部表現まで共通する点が多く,両者は同一の型を基に製作された可能性もあろう。ただ,著賛の時期か必ずしも画像の製作時期を示すとは言えず,これのみで彫像の製作年代を論じることはできない。従米本像の造像年次は像内に納入された骨蔵器外筒の銘によって考えられてきたが,この骨蔵器は明らかに師の没後に遺骨を納めるために用意されたものである。一方,師の墓にはこれと同じ弘安9年銘の銅筒が納められており,これも没後の安骨のために用意されている(『法燈圃明国師之縁起』)。そして,『法燈圃明国師行賓年譜』によれば正る。この像は「塑」とあるので,塑像とする見方が強いが,『年譜』には「エ時小刀頂応6年(1293)に国師の寿像が造られていたこと(「徒弟等命工。塑師像。」)が知られ-120-図2

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