鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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相分寸。」ともあり,また「塑」は時代は下るが木像についても用いている例(『一休和尚年譜』康正2年条)もあることをみれば,この時の像は木像の可能性がある。さらに,これから4年を経た,国師の没年の前年に痔塔が興国寺に建てられている。以上の経過を踏まえると,臨済宗の中でも独自の道を歩む事となる法燈教団では,国師の死の備えをかなり早くから行っていることがわかる。したがって,現在開山堂の塔上に安置される木像は,寿塔に安置するために正応6年に造像された可能性もあろう。なお,『法燈圃明国師之縁起』に登場し,師の13年忌に関わる遺像については,白龍庵に安置とあることをみれば,現存像の可能性はきわめて低い。③高峰顕日(1241-1316)像(図3)(正統院)早くから那須・雲巌寺に隠棲し,晩年は浄妙・浄智・建長などの官寺に歴住した像主の肖像。本像については,頭部内に正和4年9月に三河法橋院恵が造像したと解釈される墨書銘があり,翌5年10月に没する師の寿像と知られる。本像を安置する正統院は現在建長寺にあるが,師の塔所で本来浄智寺にあった正統庵の後身である。本像の造像の理由としては,寿塔との関連性(但し,正統庵が寿塔かどうかは不詳)あるいは脹60を記念してといった見解が出されている。ところで,国師は正和4年の正月建長寺の住持を退き,雲巌寺に帰住する。高齢な国師が再び鎌倉の地を訪れることができないことは当然予想され,高城寺・蔵山順空像造像の場合と同じく,現実の師に代わって仕え,礼拝する対象が求められ,彫像が製作される運びとなったのでなかろ-121-図3

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