鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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(4) 写実性の問題遺骨は塔を設けず,方丈内に安じられ(『大燈國師行状』),本像もその一室雲門庵に安置されている。師の亡くなられた時期は,大徳寺の揺藍期であり,南北朝時代の動乱が始まった頃でもある。おそらく,本彫像は大徳寺及び大燈門派の結束の象徴として,師の没後間もない頃に画像を基に製作されたものでなかろうか。⑤明岩正因(1285-1369)像(正伝庵)建長寺34世,円覚寺24世の肖像。像を安置する正伝庵は貞和4年(1348)に創建された明岩の痔塔である。像底ほかに銘文があり,貞治4年(1365)に院応が造り,像主自ら点眼安座供養した旨が記されており,81歳の寿像と判明する。造像の理由は不明だが,最晩年に至り,自らの死に対する備えを行ったのであろうか。ただ注目すべきは,像主自らが点眼安座供養をしている点である。こうした事は南北朝期にもなるとしばしば行われていたようで,天境霊致(1301-81)もこの種の法語を残している(『無規矩集』)。虎関師錬(1278-1346)は,『清北集』に「自賛」と題して「画工写我真。有形而無神。我今為此賛。以我心入身。然後此画像。精神焉我均。」とあらわしている。像主自らの点眼安座供養する行為とは,あるいはこのような自賛と同様な効果を期待してなされたものかもしれない。ただ,本像の肖像彫刻としての出来栄えは,同時期の彫像例えば興国寺(福岡)・無隠元晦(-1358)像や,霊源寺・中巌円月(1300-75)像などに比べると優れているとはいい難い。寿像にしばしば期待される高い写実性もさほど認められない。我々が肖像をみる時に,先ず注目するのは,像主の風貌であろう。ここで扱ってきた禅僧の肖像彫刻は,肖像彫刻の中でも,殊に像主の個性的な面貌を生々と伝えているようにみえる。しかしながら,これらの彫像は本来,像主の法嗣を始めとして,師の法を受け継ぐ者たちが崇敬し,礼拝するために造られた肖像である。像主の生前に造られた舟像でさえ,その没後の礼拝を念頭において造像されたと考えられる。したがって,一見写実的に見えるその風貌も,像主のありのままの姿を必ずしも写したものと言えない。宗峰妙超像の壮年の偉容は,日々礼拝する肖像に対して,弟子たちが求めたものを理想化した姿でもあろう。没後ごく間もない頃の作と推定した無関玄悟(普門)像の精涅な顔付きは,きわめて写実的な手法であらわされているが,入寂前の姿をありのままに写しているとは思えない。何よりも,この種の肖像の多くは老年-123-

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