鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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6)。これは当時の中国人の箆裔に関する認識の曖味さを示すと思われるが,広い意味巻32「孝武文李太后伝」には,太后がまだ織坊に居る頃,その肌色が黒かったので嘉[正倉院乾漆9号・図8]横に広がった獅子鼻を持つ以外は,鬼的な特徴に乏しく,敢えて挙げるならばやや大きめに見開いた眼や上歯で下唇を噛む姿などに他の宛裔面と共通の要素が見いだせる。[東大寺10号・12号・13号・14号・15号]いずれもなかなか優れた作風を示す。毛利氏は漆下地を施す技法的な面から88号面と同グループに分類されるが,造形の面からは,額,頬などを瘤状に盛り上げて威相を表現する点など112号面の方により近い。以上,箆裔面の現存作例を見てきた。しかし,いずれも鬼形的な要素という共通の特徴は持つものの,同一種類の面とは思えないほど表現が異なる。伎楽面中に他の鬼形面がないため,各研究者とも鬼形の面を全て嘉裔にあてているが,もし他に鬼形面があったとしたならば,これほど簡単に箆裔面は決定しなかったではあるまいか。このような各面での表現の違いは何を意味するのであろうか。この伎楽面の寛裔に関しては野間清六氏の研究がある(注5)。それによると鹿裔とは中国に東南アジア方面から奴隷としてもたらされた箆裔奴をあらわしたものであるという。現在ではこれがほぼ定説となり,この仮面を用いて演じられる楽の内容も,容貌怪異な異民族の奴隷である鹿裔奴が,呉女すなわち漢民族の女性の前で恥態を繰り広げ,力士に成敗されるという筋書と説明される。しかし,はたして伎楽面の鹿裔イコール箆裔奴なのであろうか。そうであるとしたらなぜ,奴隷という身分とはいえ人間である寛裔を邪鬼のような姿で表わしたのであろうか。箆裔に関しては桑田六郎氏,松田寿男氏らの詳細な研究があり,それによると鹿裔という言葉は中国の南方のさまざまな地域,島の名称として用いられているという(注では今でいう東南アジア一帯を漠然と指していたようである。つまり箆裔奴とはこの嘉裔地方よりもたらされた奴隷ということであろう。ここで,嘉裔および鹿裔奴について言及する中国文献をいくつか見てみよう。『晋書』裔というあだ名を付けられていたという記事がみえる。この記事から理解されるのは,-130-

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