鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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当時の中国では鹿裔から連想されるのは色が黒いということで,これは東南アジアの人間の肌色が中国人よりも黒いことに起因するものであろう。この箆裔が窟裔地域の人間を指すのか,鹿裔奴のことを指すのかは判断がつかないが,ここには鹿裔の姿を鬼形で表わす考えはみられない。ちなみに余談ではあるが,古代中国では茄子のことを嘉裔果と称していたらしいことが文献にみられる。これも茄子の実が黒いことによるものであろう。また,我が国では現在も椿の品種の中に箆裔黒というものがあり,それは花の色が黒みがかった紅色を呈する。これも色が黒いということによるものであろう。義浄の著した『大唐西域求法高僧伝』はインド方面に仏法を求めて旅をした高僧の伝を列記するものであるが,その中にインドヘの往復の間にシューリーヴィジャヤ(7世紀以降スマトラ島からマレー半島にわたる広い範囲に勢力を誇った王朝)に滞在し仏教の修業を行った僧の記事がみえる。この僧がシュリーヴィジャヤの言葉である[鹿裔語]をよく理解したという文脈で鹿裔が出てくる。この鹿裔は明らかに国名あるいは地域を指している。しかも仏教を信仰する所謂「文明国」として認識されている。一方,鹿裔奴が文献の上で確認できる最初は『宋書』巻76「王玄膜伝」にみられる,時の皇帝孝武帝が白主という名の鹿裔奴を寵愛し側に仕えさせたという記事である。その後も箆裔奴が献上されたという記事は史書に散見される。いずれも鹿裔奴を鬼形に表わす認識はみられない。また,鹿裔奴の容貌に関しては張籍「鹿裔児」,蘇週「詠図9明器の罠裔奴ノ図10敦燻莫高窟第148窟-131-

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