に残している。これより制作年が降ると思われる,正倉院101号•79号においては人間13面の嘉裔面から考えてみることにしよう。とも思える肉付けで威相を表現するものの,まだ人間の容貌に近い造形がなされている。それに対し正倉院101号面は角を持ち,また眼を円形にあらわすなど人間的な要素を一切感じさせず,全くの鬼面と言ってもよい程である。この相違も邪鬼の造形の変化同様,中国における嘉裔の認識の変化によるものなのであろうか。中国に現存作例が全くないため,この変化を中国側の資料で追うことはできないが,日本に現存するここでいま一度13面を見てみると,この中でもっとも古い作例である献納宝物面が鬼形としての特徴か少なく,より人間に近い。また,天平勝宝4年の大仏開眼供養に使用されたと考えられる正倉院88号・112号・東大寺面もまだまだ人間的な要素を多分的な要素が全く消え,完全に鬼形,獣形にあらわされる。つまり,嘉裔面は時とともに人間に近い容貌から鬼形へと変化していったのである。これは中国において鹿裔奴が邪鬼のようなものであると認識され,四天王足下の邪鬼に縮毛などの箆裔奴の身体的特徴が取り入れられていった過程と軌を一にする。従ってこの変化も,おそらくは中国における嘉裔奴および邪鬼に対する認識の変化とともに起こったのであろう。彼の地で,罠裔の仮面が鬼形へと変容していく中で,我が国には異なる時期の寛裔面の図様が断続的にもたらされたために,同じ鹿裔面でも制作時期によって造形が大きく木目違するのである。四天王に踏みしだかれる邪鬼が,鹿裔イコール邪鬼とする認識によって,箆裔奴の姿へ近づいていったのとは反対に,伎楽面の鹿裔は本来は人間をあらわしていたものが,中国人の認識の変化によって鬼形へ近いものへと変化し,最終的には鬼形面として造形されるに至ったのである。まとめ罠裔面の箆裔とは罠裔奴のことであるのか。寛裔奴であるとすれば,なぜ人間を鬼形に表わしたのかという疑問点から本論考は出発した。以上考察を続けてきたように,法隆寺面が制作されたと考えられる7世紀末から8世紀初頭の時点では,伎楽面の嘉皆は嘉裔奴を表わしていた。それを鬼形に造るのは,箆裔奴を邪鬼と同一視する認識によるものであることが理解できたと思う。しかしながら,当初から箆裔面が嘉裔奴を表わしていたものかどうかについては疑-133-
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