問が残る。なぜなら『日本書記』の記事を信じるとすれば,味摩之が伎楽を学んだのは南北朝末あるいは隋代のことと考えられ,一方,箆裔と鹿裔奴を混用した史料で隋代にまで遡るものを,現在でのところ探しえないからである。嘉裔か箆裔奴と混用され,さらにはその窺裔奴が邪鬼のようであると認識されていった過程から考えるならば,当初は東南アジアのある民族を表わしていた箆裔面がやがて鹿裔奴と理解され,さらには鬼形に造形されるようになったと考えることも可能である。これ以上は史料もなく,あくまでも想像の域を出ないが,あえて想像を退しくすれば,当初の寛裔面は中国南方に侵入してきたインドシナ半島の異民族,すなわち本来の意味での箆裔を表わしていたのではないだろうか。例えば『後漢書』巻86南蛮列伝には当時漢の支配下にあったベトナム地方で区憐等数千人が反乱を起こしたという記事がみられる。その後も,ベトナム中南部に勢力圏を持っていた林邑国(チャンパ王国)の人々を,好戦的で気性が激しいとする記事が史書に散見される。呉女に懸想をする鹿裔を力士が打ち捉えるという楽の構成には,たびたび中国の領域をおびやかした異民族と,それの制圧という史実が反映されていたのではないだろうか。あるいは,箆裔が楽中でみせるマラフリ(性器の露出)の仕草は,シヴァ神の象徴であるリンガを崇拝するヒンドゥ教徒の隠喩であり,鹿裔をこらしめる力士の図は,異教徒を調伏する仏教の姿をシンボリックに表現するものかもしれない。想像は尽きないが,この問題に関しては鹿裔面一つを取り出して考察するだけではなく,伎楽全体の構成から考える必要があり,今後の課題としたい。以上,伎楽面の箆裔にしぼって報告を進めてきたが,この仮面一つを取ってみても鬼形像にみられる畏怖.嫌悪の造形は複雑な様相を呈し,民族固有のイメージを如実に反映している。今回は中国における畏怖.嫌悪のイメージが必然的に中心となったが,今後は我が国での鬼形像の変遷とともに,仏教の源流である南アジアに遡っていく方向で調査,研究を続けていきたい。(注1)伎楽および伎楽面に関する論考は多数あるが,ここには特に今回参照したものを掲載する。津田左右吉「伎楽考」『東洋学報』5-31915年金森達「正倉院の伎楽面に就いて」『国華』552• 553 1936年野間清六『日本仮面史』1943年-134-
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