鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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また,『絵本あづまの花』中の絵馬には「稲葉六郎太夫」と記されている。この絵暦にも「稲葉喜三郎承休」の名に白文方印「承休」が添えられている。ともに稲葉姓の人物であり,何らかの関係も予想されるが,両者の関係は未だ明らかではない。絵暦の稲葉喜三郎承久は,北斎に絵暦の図柄を依頼した人物と判断される。当時稲葉姓で喜三郎を名乗る人物には,尾張藩士で有職故実研究者の稲葉通邦(1744■1801)が知られる。両者を同一人物とすると,宗理改名時の北斎の周辺には身分的にもかなり異なった人物が存在したと言え,絵暦は北斎の宗理改名年次を裏付けるばかりでなく,当時の北斎の周辺を再考する上で意義あるものと思われる。宗理改名の翌年,寛政八年の年記を有する宗理落款の摺物は,現在十一点を確認している。しかし,改名して間もない北斎は諸方面からの注文に応じたらしく,特にどの狂歌グループが多く北斎に摺物を依頼したとは言えない。先述の浅草市人および浅草側の狂歌師が目立ち始めるのは寛政九年の摺物からである。この年,狂歌集等から浅草側,浅草市人傘下の人物と判断される狂歌師を載せた摺物は現時点で七点を数え,寛政十年には九点と僅かながら増えている。これには北斎が浅草に住んでいた地域的な事情も働いたであろうが,北斎の摺物に浅草側の摺物が増加する時期と,浅草市人自らの狂歌会が催された時期が一致する点に注意を要したい。寛政十一年春浅草市人は全国三十四の狂歌連を浅草側に従えた狂歌集『東遊Jを刊行した。これに挿絵を描いた絵師も北斎である。同時に,北斎は「宗理改北斎」落款で浅草側の摺物「己未美人合之内」を発表した。この摺物は,北斎の摺物中で年次の判明する最初の連作(シリーズ作品)であり,同年・同型式・同構図で描かれた作品が六点まで確認される。画面全体に描かれた大首絵風の女性半身像は,彼の作品全体の中でも珍しい。「宗理改北斎」落款の摺物には,他に一種の連作がある。落款から「己未美人合之内」と同年ないし翌年の作品と推定され,「雁金五人男」を見立てた連作である。現在四点が知られ,各図に男女二人が描かれている。一見見立ては判断し難いが,各図に描かれた男の紋は『三升屋二三治戯場書留』(1837)に掲載される雁金五人男の紋と一致する。狂歌にも雁金五人男・各人物の名は巧みに詠み込まれている。ところが,この連作に狂歌を添えた人々は浅草側の狂歌師ではない。結論のみ言えば,彼らは三陀羅法師傘下の狂歌師達と判断されるのである。三陀羅法師の狂歌グループは,『狂歌熊』に「神田側」と記され,狩野快庵『狂歌人名辞書』(1928)等は「千秋側」と載せる。前-5-

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