鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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(ママ)2.職名について永2年)には大仏師職康伝と法眼左京が担当している。342)があり確認できる。ただ書写年からみて両方とも二八代康伝に交付されたものと3.まとめにかえて中世,近世を通じて慶派仏師に引き継がれた東寺大仏師職は康知まで継職されたことが既に根立研介氏によって指摘されている(注7)。康乗についても東寺の講堂五大尊像(寛文6年),兜践毘沙門天像(延宝2年)の修理を手掛け,東寺大仏師職を補任していたことが推測出来る。しかし,康祐については東寺に遺品がなく不明である。ただし叡山文庫に寛文10年5月「東寺補大仏師職之事」書状(630-18)が残り,これが康祐の補任状とも思われる。これ以降東寺大仏師職は七条仏師の手を離れたようで,美術研究本では東寺大仏師職の補任が途絶える。その後,東寺大仏師と称した仏師としては醍醐寺金堂薬師如来像修理(元禄9年)にみえる志水伝内弘和・民部卿弘安,東寺観智院五大虚空蔵像修理(元禄16年)の法橋民部卿良以が掲げられ,更に小林剛氏によると(注8)清水定覚(明和3年に科ありて追放),子息の清水安之進(天明3年に復職相続)も東寺仏師職を継承したとされる。従って東寺大仏師職は康祐以降志水(清水)氏に引き継がれていたように思われる。ただ定覚ー安之進間の空白期には七条仏師側に復職したようで,このことを裏付けるように東寺食堂四天王像修理(安美術研究本ではその後二七代康伝が東叡山交衆免許,二八代康伝山門東塔比谷交衆免許が掲載されている。前者については叡山文庫に元禄15年〔康伝〕「比叡山根本中堂並西塔御修復・東叡山中堂各交衆之写」(664-344),元禄年間〔康伝〕「交衆免許御書写」(664-343),後者については宝永4年〔執行代〕「大仏師康伝江交衆免許状」(665-考えられる。以上,美術研究本に掲載される康音以下の仏師事蹟,職名を中心に検討を行ってきた。その結果,事蹟,職名についての記述は概ね信用がおけるものと判断できた。ただし,二七代康伝については事蹟,職名とも明らかにすることが出来なかったが,『京都御役所向大概覚書』でみたようにある時期左京と康伝が並存したことからすれば,この時に康祐までの七条仏師の系譜に断絶が生じ,三一代康朝までは康伝一門の系譜と交錯,あるいは交互に引き継がれていったと思われる。ここに運慶以来続いて来た七条仏師の持つ伝統の終焉を感じ取ることが出来よう。これを象徴するかのように東-142-

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