PEINTURE V ALEUR DE DEMAIN’')という評価がようやく納得できた。1794年という早い時期に,バロック絵画で駆使された図像学の伝統を使いながら,若き日の自画像や《ヤコブの夢》が飾られた細長い部屋を過ぎると広いサロンになっていて,左手に理性宮Templede la raisonを飾るはずだったグリザイユの諸作品,右手奥にお日当ての《世界を経巡る自由》が大事にかけられていた。ジーモン夫人に従えば,レアテュの計画案通り《自由の勝利》[図1]という題名になる。グリザイユの筆さばきは一分の狂いもなく,まさにアカデミーの古典主義的な教育を体得したデッサンである。しかし,《自由の勝利》は予想以上にバラ色がかった色調で,油絵の具の粘りが強く感じられる。「二つの世紀にまたがり,古典主義とロマン主義二つの概念を示す。完成作はダヴィッド的なアカデミスムに近いが,軽い習作は色彩のいきいきとした大胆な粗描きである。」(GeraldSchurr "PETITS MAITRES DE LA ジーモン夫人の説を参考にして《自由の勝利》の図像解釈を試みよう。3人の若者にかつがれた輿に乗って座るのが「自由」である。左手で三色旗を持ち,赤いフリジア帽(古代フリジアに由来する帽子。円錐帽の頭頂部が丸く膨らみ前に倒れている。しばしばこの絵のように両耳と首筋を覆う長い垂れがつく。)を被っている。その後ろで前方を示しているのは英知と勝利の女神ミネルヴァ,後方には水準器を手にした「平等」と人権宣言の板を持った「法」が付き従う。前方では,頭上に炎をともした有翼の精霊が暗雲を払い,「圧政」を倒すために軍神マルスやギリシア神話のヘラクレスのような戦士が槍を振りかざして戦っている。足下には累々たる死体。すでに革命思想を伝えるための表現手段を,プロヴァンスのー地方画家が獲得していたことに驚かざるを得ない。しかしこの作品は34.5X47cmの小品である。コンクールのために,国民議会に提出された試作にすぎない。「奨励作品」として評価されたにも拘らず,政権のめまぐるしい交代で資金が打ち切られ,大作が完成することはなかったという。レアテュの生涯に関してジーモン夫人に学ぶところが多かった。ジャック・レアテュは1760年アルルに生れた。アントワーヌ・ラスパルというアルルの画家の甥にあたり,16オでパリに上り,ジャン=バティスト・ルニョーの門下に入る。1790年にローマ賞を獲得しイタリアに赴く。画家として順調なキャリアを踏み出したわけだが,大革命勃発により1793年にローマのアカデミー・ド・フランスは閉鎖される。レアテュは奨学金も打ち切られ帰国せざるを得ない。マルセイユ到着後すぐに,新政権に受け-149_
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