入れられる革命的寓意画の構想に着手したようだ。しかし不安定な政情はレアテュに大作を描く経済的,精神的ゆとりを与えない。パリに上ることもなく,レアテュはマルセイユで孤独な制作を続ける。1804年に遺産を相続してからは帝政に馴染めないこともあり,アルルの村に隠棲し,農業と牧畜に専念した。その後王政復古で再び絵筆をとることになり,南仏の公共建造物を装飾し,1833年アルルで死去した。イタリアから帰国して以後,パリの画壇と関わることなく南仏で孤独に描いた画家の生涯である。ジーモン夫人は「フランス革命の画家」と呼んでいるが,レアテュは革命的寓意画をそう多く描いているわけではないし,グリザイユの《圧政と戦う自由》などはアマゾノマキアを描いた古代の大理石レリーフを思わせる。レアテュの描きたかったのはあくまでも,古典的伝統に則った神話画であったように思われる。しかしそのようなレアテュであればこそ,小品とはいえ《自由の勝利》のような完璧に革命的な寓意画を描いたことが一層注目されるのである。ジーモン夫人は《自由の勝利》のイメージ・ソースを決めかねてダヴィッドとの比較を試みている。確かにダヴィッドの着想との類似は興味深い。だがそれ以上に,ラ・マルセイエーズで鳴らした南仏である。マルセイユやアルルで激しく盛り上がった革命祭典の式典やパレードこそが,画家にヒントを与えたと考えるべきであろう。革命祭典と寓意画の相互作用は今後の重要な研究課題である。図lレアテュ《自由の勝利》34.5X47cmReattu ; Le Triomphe de la Liberte アルル,レアテュ美術館-150-
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