のAkropolis,Zeus Po lieus神域の脇に設置したIo像の形を受継いでいる。現在Louvre前400年前後の陶器画に描かれたIoの形と酷似するため,この形は同時期,彫刻と絵画17)に使われている。Macellumの壁画の原作者はおそらく前360年頃の先行作からArgos3. Pliniusの「博物誌」35,132は,前4世紀中頃に活動したAthenaiの画家Nikias闘場面を表した陶器画に屡々認められるが,このうちMinotaurosを斃すTheseusの図像がHermes-Argosと関係づけられる。戦いの相手が共に牛の怪物だからである。更に遡れば,エジプトでは同一の形の組合せが,征服者であるファラオが被征服者を撲殺する場面に定型的に適用され,この図像がエジプトにおける異民族征服の儀式に根差すものであることが想像される。最も早い時期の遺品は第1王朝初期,前3100年頃に制作された「Narmer王の化粧パレット」である。Io神話におけるエジプトとの関わりは,ArgosとHermesの一組の形だけによっても暗示されていることになる(エジプトの遺品については羽田1995では触れなかった)。にある「SupplianteBarberini」はDeinomenesのIo像のローマ模刻と考えられるが,においてIoを描く際の規範性を獲得したと推定される。このIoの形は,Heraionのの場を特定していることになる。更にPompeiのMacellumとRomaのCasadi Liviaの壁画のタイプではArgosは剣を持っていることが多いが,Io神話の図像伝統では剣は一貫してHermesの持物であった。画面の奥に位置する側の足を岩の上に乗せ,その反対側の腕を,上げた方の膝に交叉させるArgosの形は,前360-340年頃の2つの陶器画(羽田1995,挿図14,の形を受継ぎながらも,Io神話を描いた最初期の絵画伝統(第1のタイプ)において,よるArgosの殺害場面を見る者に想像させたと考えられる。Argosの中にHermesが隠し描かれている以上,Casadi Liviaの類似の壁画のようにHermesを明示する必要はなく,このHermesはRomaの画家が付け加えたものということができる。が絵画《Io》を描いたと伝える。Io神話を主題とする美術作品を制作した画家・彫刻第2のタイプにおけるIoの形は,前410年代にPolykleitosが制作したHeraionのHera神殿のHera座像に基いて,その弟子のDeinomenesが前5世紀末に,AthenaiHera神域がこの物語の誕生の場であり展開の場であることを示し,この形自体が物語HermesがArgosを殺害した際の武器であった剣をArgosに持たせることによって,Hermesの姿を描くことなくその存在を暗示し,物語の次の展開,すなわちHermesに-160-
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