⑮ 学習と創造—狩野元信の場合—343号),14世紀の高階隆兼の様式から元信が取材したものが多いことは理解しやすい。研究者:京都工芸繊維大学助教授並木誠士はじめに一問題の所在一狩野元信は,永正12年(1513)に鞍馬蓋寺縁起を制作したという記録をはじめとして,奥書に永正15年(1515)の年記がある釈迦堂縁起や酒呑童子絵巻,酒飯論絵巻といった絵巻作品を手がけている。しかし,その絵巻制作に際して,何らかの先行する絵巻物を学習したとする記録は知られていない。しかし,当然のことではあるが,元信が鞍馬蓋寺縁起や釈迦堂縁起を制作する以前にまったく先行する絵巻物に接する機会がなかったとは考えにくい。父の狩野正信が,日野富子像制作に際して土佐光信が描いた嘉楽門院像を参考にするように指示されたように(『実隆公記』),注文主が元信に絵巻物を注文する際には,何らかの先行例の提示があったと考えるべきであろうし,また,元信自身もそのような機会は積極的に利用したであろう。特に,狩野派における絵巻物のように画系として伝統的な「語り方」に習熟していない場合には,先行作品の参照が必要とされる度合いは大きかったと考えられる。また,父正信に関しては,記録・遺品ともに絵巻物とのかかわりが認められないが,その正信においても何らかの絵巻物体験があった可能性は考える必要がある。元信の絵巻作品としては,従来の絵巻研究史においては,清涼寺蔵釈迦堂縁起がもつばら考察の対象であり,サントリー美術館蔵の酒呑童子絵巻に元信の手を認める場合も,釈迦堂縁起との対比で作業は行われた。その限りにおいて,村重寧氏が指摘するように(「狩野派様式の成立とやまと絵ー伝元信筆「釈迦堂縁起」の意義」『MUSEUM』しかし,実際には,元信と隆兼様式絵巻との接触も確認できない現状を考えれば,元信絵巻の様式形成の過程は,いまだほとんど明らかになっていないのが実状である。さらに,拙稿「酒飯論絵巻と狩野元信」(『美術史』138号)で指摘したように,元信絵巻を酒飯論絵巻を含む振幅のあるものとして捉えるとき,その取材範囲に関してもさらに広範な作品群を想定する必要がある。本稿では,酒飯論絵巻を主として対象に取り上げ,特にこの絵巻の特徴のひとつである風俗画的要素と,それを生み出したひとつの要因としての詞書(テキスト)と絵との関係,というよりも両者の「無関係」という関係について検討を加えてみたい。-162-
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