好きの造酒正糟屋朝臣長持が持論を展開し,第三段はご飯好きの飯室律師好飯がやはり持論を展開し,最後に第四段で中左衛門大夫中原仲成か登場して両者ほどほどがよいという意見を述べ終わる。各段はそれぞれ酒やご飯についての古今の事項の羅列であり,いわゆる物語的な叙述ではない。一方,絵の方は,第一段は三人が対面している場面,第二段は糟屋長持の家での宴会風景,第三段は飯室好飯の食事風景と厨房の様子,第四段は中原仲成の酒とご飯を交えた食事の光景とやはり厨房の様子が描かれる。絵巻物の通例と中国の『酒茶論』の存在を考えれば,この酒飯論絵巻の場合,詞書が先に成立していたと考える方が自然であるため,問題は,このような詞書に対してそれと直接は対応しない絵を構成したのは,画家の独自の判断なのかあるいはプロデューサー的立場の人間がいてその人の個性によるものなのか,という点である。酒飯論絵巻の制作状況,詞書の筆者が不明な現段階での判断は難しいが,この時期の絵巻物制作の一般的な状況から考えても,酒飯論絵巻が画家の全く個人的な動機から制作され,独自に構成された作品であるとは考えられず,そこには何らかの形での「注文」が存在したと考えるべきであろう。しかし,現時点では,詞書成立の経緯,絵巻制作の発願者とプロデューサーなど不明な点が多いため,ここでは,画家が詞書から離れて何を描いたかという点に注目して論を進めてゆきたい。画面から看取されるこの作品の絵画制作意図が,宗教的表現でもなく各エピソードの表現でもなく,食事・宴という人間の根源的な営みの表現であったことは明らかである。しかもここでは,宴会・食事といった情景にだけ眼を向けるのではなく,そのための準備をする厨房の様子をも克明に描き出している。そして,画面全体としては,さまざまな階層の人物が,それぞれの持ち場で働き(厨房の男女),休息し(門前の従者たち),あるいは酒食に興じている(主人公の三人)。このような画家の視点は,酒飯論というテーマを一方で抱えながら,他方で,「食」という人間のH常的な営為を通して人間のさまざまな風俗を表現しようとするものである。さまざまな職種を絵画化する作品としては,鎌倉時代の後半から制作されるようになる職人尽歌合などを先行作例としてあげることができるが,酒飯論絵巻の場合,ここでは職業という枠にとらわれず,日常の営みとしての調理や酒食の様を描き,酔って醜態をさらす人物たちも描くという点で,はるかに風俗画的である。この点に関しては,酒飯論絵巻に描かれているのが,物語などのように過去の特定の「時」の様子である必要はなく,当世風-164-
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