鹿島美術研究 年報第12号別冊(1995)
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表され,巻五では,覚如の家の和歌の会に供する厨房の様子が隣接する厩とともにやはり克明に表されている。それを点景の充実と捉えるか,あるいはそこに,豪華に饗応されるにふさわしい人物として覚如を顕彰するという積極的意味を読みとるか(野場喜子「「癌帰絵詞」の陶磁器」『名古屋市博物館研究紀要』13巻)は判断のわかれるところだが,いずれにしても,視点を主人公に限定しないで,その主人公の描かれる舞台の裏に当たる部分をも均等に,しかも克明に描き出している点が特徴的である。先述したように,元信あるいは正信が,先行する絵巻作品を参考にしたという記録は現時点では知られていない。したがって,初期狩野派と先行絵巻作品の接触については,あくまでも,可能性の問題として捉えなければならない。そこで次に,慕帰絵詞と狩野派の間に接点があるかどうかを考えてみたい。ここで問題となるのが,慕帰絵詞が15世紀後半の文明年間に一時期将軍家のもとにあったという事実である。すなわち,慕帰絵詞の巻ーの奥書によると,数年間将軍家のもとにあり,その後文明13年(1481)12月4日に本願寺に返却されたが,その際,巻ー,巻七は「紛失」していたので,翌年「書加」し,追って返還されたことがわかる。この将軍家の慕帰絵詞借覧の背後には,相次ぐ火災で蔵品を失った書庫充実のための足利義政の意向があったとする説もあるが(谷信一「慕販秦會論」日本綸巻物全集『善信聖人綸八慕帰象會』所収),むしろ,義政夫人の日野富子が,日野家の出身である覚如に対する興味から借覧したと考えるはうが自然であろう。ところで,狩野正信は,義政,富子そしてその子の義尚の肖像画を描くなど,この一家には明らかに近い存在であった。むしろ正信は,毅政に認められてその画事に携わることにより画家としての地位を固めた考えられる。そして,東山山荘の襖絵制作などの義政関係の画事を勤めるにあたっては,その所蔵品を参考にしている例が指摘できるため(『蔭涼軒日録』),正信が将軍周辺の場で慕帰絵詞と接触した可能性は充分に考えられる。そして,正信筆の地蔵院蔵足利義尚像と元信筆の永青文庫蔵細川澄元像ボストン美術館蔵宗祇像との関係を考えれば(拙稿「狩野正信の肖像画制作について一地蔵院蔵騎馬武者像をめぐって一」『瓜生』13号),正信から元信への図様その他の伝播は当然あったと考えるべきであろう。一方,将軍家における巻ー,巻七の「紛失」とそれにともなう補作に関してだが,「紛失」という語については,神崎充晴氏が指摘するように将軍家による召上げの可能性もある(「「慕帰絵」の詞書」続日本絵巻大成『慕帰絵詞』所収)。確かに「紛失」-166-

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