3.学習と創造一元信様式絵巻の成立・試論一ということが考えにくいのは事実である。ただし,文明14年(1482)の掃部助藤原久信の補作が,床の間の存在,六曲縁取りの金屏風の使用など細部に15世紀的な様相を示している点を考えれば,補作をされたこの二巻が原本の忠実な復元であったことは考えにくい。であるとすれば,久信補作の段階で,原本が存在しなかったのか,あるいは,何らかの理由(すでに将軍家の秘蔵となっていたなど)により原本を見ることができなかった可能性も考える必要があるだろう。久信は,この慕帰絵詞補作の事実しか知られていない逸伝の画家であるが,正信と同時代に活躍をした画家として,両者の間には何らかの接触があった可能性はある。さらに,大永4年(1524)に制作された真如堂縁起の筆者であり,久信との関係が示唆されることが多い掃部助藤原久国は,元信と同時代の画家で,明らかに元信絵巻からの図様の借用が指摘できる(前掲拙稿「酒飯論絵巻と狩野元信」参照)。このように考えると,共に掃部助を名乗る久信と久国というふたりの画家と正信・元信父子とはかなり密接であったという推測も可能である。さらに狩野派との関係を通して久信と久国を関連づける視点も必要となってくる。次章では,この点に着目して元信の「学習と創造」について考えてみたい。村重寧氏が指摘するような高階隆兼絵巻から元信絵巻への様式上の影響関係は,酒飯論絵巻第二段後半で,酔った男が仲間に額を押さえられながら吐いていて,その吐潟物に犬が鼻を寄せている表現が,春日権現霊験記巻八で,疫病にかかった男が妻に額を押さえられながら吐いている場面と左右逆転しているが犬のポーズまで共通する図様を示している,という事例により,元信絵巻の範疇に酒飯論絵巻を含めても認めることのできることがわかる。したがって,元信が隆兼絵巻を学習して,それをみずからの絵巻制作に反映させた可能性は高い。それでは,元信が,掃部助久信あるいは父の正信を通して慕帰絵詞から何かを学んだとすれば,それは,前章で指摘した風俗描写への関心に加えて何があったと考えられるだろうか。確かに,画面に水平な直線とそれに斜めに交わる斜線とで建物を構成する安定感のある構図や巻ー冒頭の門前の情景など,慕帰絵詞には元信絵巻に通じる要素が認められる。しかし,慕帰絵詞全巻を検討してみても,個々の図様レベルで元信絵巻に共通-167-
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