4.おわりにする図様は認められない。元信と同時代の掃部助久国の真如堂縁起が,元信の釈迦堂縁起や酒飯論絵巻,さらに先行する松崎天神縁起などから図様を借用していることと比較すれば,元信は,先行作品からの図様の収集にさほど積極的ではなかったといえるかもしれない。図様の側面に限らず,人物を表現する線描を見ても,釈迦堂縁起や酒飯論絵巻の線描が,隆兼様式や慕帰絵詞の藤原隆章,隆昌,久信のいずれのものとも異なる抑揚のある線描である点が認められるし,釈迦堂縁起ですでに指摘をしたような斜めの方向性を多用した構図とそれを支えるすやり霞の形状といった元信絵巻特有の画面構成(拙稿「釈迦堂縁起の画面構成について一狩野元信研究ー」『美学』169号,拙稿「狩野派の絵巻物制作ー「釈迦堂縁起絵巻」の規範性と絵巻物における元信様式ー」『日本美術全集』12所収)も,元信独自の様式に昇華していると考えるべきであろう。元信の斜めの方向性の多用については,元信が中国宋・元の絵画をもとに絵巻物の構図に用いたものであったが,このように元信は,先行作品の学習を,単になぞるというのではなく,みずからの様式に昇華する創造性をもっていたと結論づけることができる。したがって,元信は,高階隆兼様式絵巻や掃部助藤原久信の作品を消化し,それをみずからの様式に昇華させたと考えるべきであろう。絵巻物における元信様式の振幅を釈迦堂縁起と酒飯論絵巻の間に認めるとすれば,その表現上の振幅は,画面内の風俗画的要素(点景の充実)の振幅とも重なるだろう。そしてそれは,元信が参考にした作品の振幅としても捉えることができるかもしれない。ここでは,酒飯論絵巻に見られる風俗画的要素の手本となった作品として,ひとつの仮説として,元信と慕帰絵詞との接触を考えてみた。現存する絵画作品で風俗画的表現に関心を示す点では,慕帰絵詞は明らかにひとつの画期をなす作品である。そして,その慕帰絵詞を,足利義政・日野富子という狩野正信にとって大きな影響を与えた将軍家という「場」で,あるいは正体不明の画家掃部助藤原久信という画家を通して正信・元信父子が接した可能性は,単に同時代というだけでなく,あったと考えたい。狩野正信と掃部助藤原久信,また,狩野元信と真如堂縁起の筆者である掃部助藤原久国とは,それぞれほぼ同時代に同じような「場」で活躍をした画家として,おそらくは相互に交流があったのではないだろうか。しか--168-
元のページ ../index.html#178